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阪神大震災を記録しつづける会の高森順子さんからお誘いをうけて2024年7月と9月KIITOでのトークセッションに参加させていただいた。そこで初めて災間と分有という言葉を耳にした。確かに災害はいつ起こるかわからない。365日のうち数日又は何年かに1度だろうか。災厄のあいだ=災間を生きているということになるのだろう。1995年1月17日、私を含めまさか神戸や阪神間、淡路島にいた人達にとって大震災に見舞われるとは想像もしえなかった。

私は出産のため、前日に県立こども病院に入院していたおかげで身体には特に影響を受けなかった。ただこども病院では停電の影響で妊婦は明石市立市民病院へ救急車で運ばれ、1月19日に無事女児を出産した。重度の障害をもって生まれてきた娘は、自宅のガスが復旧するまで約2ヵ月間入院したままであった。

その娘も7才3ヵ月余りで天国に還った。

2011年3月11日 東北地方太平洋地震が起こった。津波の影響が激しく母方の祖父の数百年経つ生家も被害を受け、親戚はアパート住まいを強いられた。関西方面の親類一同で見舞金を集め直接送った。お返しに送られてきたわかめ等の海産物に放射能の影響が無いことを示す書類も添付されていた。

2018年台風第21号は9月4日の激しい雨風で大水害をもたらした。翌5日はFM尼崎でパーソナリティ担当の日。放送開始からライフライン等の情報を流しつづけた。お越しいただいたゲストも芦屋の自宅マンションの前の道がまるで川のようだったと言われていた。

1995年春に防災用に揃えたキャンプ用の湯沸かしセットや水浄化ボトル等は今も未使用のまま。ただ梅雨の時期や台風のシーズンになると直近の情報に神経をとがらせる。防災グッズはその時やっぱりチェックする。

当時に比べて便利で快適な物品が増え、情報もスマホで割合簡単に手に入れることができる。でも大切なのは人とのつながりだと思う。

最近、居住地の自治会の存続の危機が取りざたされている。高齢者社会になり役員のなり手がなく一部の人に大変な負担がかかっている。大震災の時、地域のみんなで助け合ったことを思うと自治会も必要なんだと思う。

そしていつ起こるかもしれない災害にむけて災間を過ごしていくのだろう。

震災後30年経つと思うとあっという間のような大変長く経ってしまったような不思議な気持ちになる。
娘の同級生の皆さんと共に活動しているリハビリ訓練会も24年目となる。
私もそろそろ古希を迎える。
できれば、大きな災害の起こらない間でおだやかに生きていきたい。

タイトル

災間という言葉に出会って

投稿者

眞治かおり

年齢

68歳

1995年の居住地

神戸市兵庫区

手記を書いた理由

高森さんからは早い段階で30年へ向けての活動についてスケジュール等もお聞きしていました。手記も募集するが当初はオブザーバー的な立ち位置と理解し手記も書かずにいました(※)。先日「手記も楽しみにお待ちしております」とメールをいただき書くに至りました。書くことがあるのだろうかと思いつつ、書き始めると書きたいことが次々とあふれ出てきます。このような機会をくださった高森さんはじめ、スタッフの皆様に感謝いたします。

※編注:眞治さんは阪神大震災を記録しつづける会の活動のなかで、何度も手記を執筆している。