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今から50年ほど前、私は東京で下宿暮らしをしていた。もちろん、電話はない。学食や風呂代のお釣りの10円玉を豚の貯金箱に貯め、公衆電話から実家へ電話をかけた。10円玉は吸い込まれるように入る。話している最中も「ガシャガシャ」と音を立てて落ちていく。寂しい時やつらい時、実家に電話をかけた。母の声が聞こえると、今度は10円玉の落ちる音ばかりに気を取られた。

時代とともに大きく様変わりしたのが電話だろう。現在は、携帯電話が主流である。ひとり1台、家族でも共有することはない。いつでも、どこでも連絡ができる。夫は「追いかけられるのがかなわん。昔はなくて過ごしてきたのだから」と携帯電話を持たない主義だ。しかし、最近は公衆電話がなくなり、震災などで急な連絡、発信ができないことに困ったらしい。携帯電話の架電機能のみを使うようになった。

30年ほど前、私たち家族は夙川の北に住み、阪神大震災にあった。突き上げるような、地鳴りと揺れ、……家族と抱き合い無事を確認した。めちゃくちゃにひっくり返った家具の中から、遠くに電話のベルの音が聞こえた。大阪に住む義姉から「無事ですか?」との電話だった。電気、水道、ガスが断たれたが、電話線は切れていなかったのだろう。地震直後からつながった。電話会社との直接の契約だったからだろうか。互いの無事を確認できる、電話に助けられた気がした。

2日後、夙川の南に住む友人が心配になり、何度も電話をした。電話をかけてもお話し中の「プープー」の音ばかりだった。公衆電話からも電話をしてみた。お話し中だ。友人の夫が前の年に亡くなっていたので、一人暮らしだ。

「心配した友人らが次々に安否確認の電話をかけているのだろうか」
それにしても、お話し中が続いている。

「こんな時に長電話はしないだろうな」
と思いながら、自分の家の片付けに追われた。

震災3日後も、友人の電話は「プープー」とお話し中の音だった。
さすがに不安になり、夫と彼女の家を訪ねた。彼女の住んでいた2階建て文化住宅は「ペシャンコ」につぶれていた。1階に就寝中だった彼女は眠るように亡くなっていた。

枕元近くに電話はあった。地震で受話器が外れて、お話し中になったのだろうか。そうは見えなかった。電話線が切れていたら電話の音は「ツー」とも鳴らないはずだ。

震災直後に彼女に電話をしていたら、電話がお話し中でなかったら……もっと早くに救出に行けただろう。電話も、地震の大きな揺れに混乱したのかもしれない。彼女の遺体を運び出すまでに、それから2日かかった。

彼女は天国の夫と長話をし続けていたのだろう。そう思いたい。

タイトル

つながらなかった電話

投稿者

阿部眞理子

年齢

75歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

電話に頼った生活を続けている。震災の時、電話はどのように役に立ったのか? そうではなかったのか? 胸の中にあり続ける疑問を書いてみたかった。