Loading

あの地震を経験したと言っても私は大阪市内の勤め先にいた。仕事が忙しく前々日から家にいなかった。また母も、10日前に長女を出産した姉の世話のために枚方に行っていた。通常、家にいるのは父、母、妹、私と4人のはずが、地震の時は父と妹だけだった。

地震の揺れは大阪でも凄まじく、今まで感じたことがない揺れにびっくりしたのと同時に、仕事中のデータが飛んでしまわないかどうかが気になって慌ててパソコンを閉じたことを覚えている。すぐに姉の家に電話をかけるとつながったが、神戸の家に電話をしてもつながらない。不安に思ってもどうしようもなく呆然としていた。テレビをつけるとはじめは地震状況を知らせるものがなかったが、だんだんと映像が出てきた。ヘリコプターからの中継で映し出されたのは東灘区森南町の辺りの家々がドミノ倒しのように同じ方向に倒れてめちゃくちゃになっている様子だった。森南町は私の家がある本山中町のすぐ隣の町。映像を見た時の打ちのめされたような衝撃が忘れられない。近所であのような倒壊があれば、昭和の初期に建てられた木造2階建の我が家は、同じようなことになっている可能性は高く、想像するだけで怖かった。

たとえ家が潰れても父たちがどこかに避難してくれていればと願っていた。しかしやっとのことで公衆電話を見つけて連絡してきてくれた妹が「お父ちゃんが死んだ」と泣いて伝えてきた。2階にいた妹は偶然に無事だったが、1階が崩れ、寝ていた父を梁が一撃したとのことだった。また、梁に挟まったままで父を取り出せないでいるとも言ってきた。その時は父が死んだことや家が潰れたことのショックよりも、父を早く取り出さなくてはという思いが強かったかもしれない。使命感のような気持ちと不安いっぱいで自転車で我が家へ向かった。

勤め先のある南森町から本山中町まで約26km。どれ位の時間がかかったかが覚えていない。途中前輪が何かを踏んで空気が抜けた。それでも自転車のペダルを踏んで黙々と走った。

家の前に着くと2階を残してあとはペッチャンコだった。屋根瓦を少し前に葺き替えていたので、そこだけ壊れもせず綺麗に残っていた。そのギャップのある姿に思わず笑ってしまった。今から思えばそれは遺体となった父との対面の前で、会いたいけれど死んでいる姿をどうやって受け止めるか心が揺れている時だったので、出来るだけ日常的な心を持ちたかったのかと思う。

父の遺体は震災3日目で梁から取り出し大阪に運び、荼毘に伏すことができた。これはたくさんの方々のご協力なしにはできないことで、今思い出しても感謝の気持ちしかない。

「不幸中の幸い」と何度も思った。父を取り出すためにたくさんの人に手を差し伸べられたこと。母は姉が出産した子に、私は仕事に命を助けられた。

先日その姉が出産した子が30歳の誕生日を前に入籍した。父もきっと喜んでいると思う。

タイトル

30年前のあの時

投稿者

児玉泰江

年齢

60歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

震災当時は自分のような経験をしている人がたくさんいる中で、自分のことを語るなんて思いもしなかったです。今回の手記募集の中の「語るほどのことでないと感じる出来事が、誰かの明日を生き抜くヒントになるかも」の一文に背中を押されました。30年が経ち、世代が変わっていく中で次の世代の人たちに少しでもお役に立てばとの思いで書いてみました。