15歳のときに経験した震災。その日に歩いた道をたどりなおす気になるまで、ずいぶん時間がかかった。
1月17日、轟音で目が覚めた直後に揺れた。何が起きているのかもわからず、頭を抱えてベッドの上でうずくまっているあいだに揺れはおさまり、ほどなくして隣の部屋で寝ていた父が家族を呼ぶ声が聞こえた。小学生の弟は前日から熱をだしていて体調が悪い中、小学校に家族で避難した。弟の看病をする母を残して、父と一緒に魚崎に住む祖母の家に向かった。
阪神電車の高架をくぐるとすぐに祖母の家がある。祖母の家は木造の2階建てだった。崩れていた。折れて傾いた柱が運よく支えになってできた空間に祖母はいた。会話はできるものの、通って出られるほどではない。空間に覆いかぶさっている2階だったものは、父と自分だけでは動かせなかった。急いで近くに住む親せきの家にいった。
ほどなくして伯父やいとこがあつまり、祖母を出せたのがいつ頃だったのか、もうわからない。祖母を助け出したあたりからほとんど覚えていない。母の話によると、家に戻った後はすぐに寝ていたらしい。
関西の大学に入ったあと、ボランティアなどで支援活動に来ていた人と多く出会った。その人たちから話を聞いたりするうちに、あの時に何もしていなかったことがどんどん後ろめたくなった。運動部もやっていて元気だったのだから、すぐ寝ずにもっと人を助けにいけばよかった。たしかに毎日大変だったけど、身近な人に、もう少し何かできなかったのか?
その思いを別のボランティアの動機に変えたりしていたが、神戸には足が向かず、東遊園地の慰霊の集いに参加したのも何年もしてからだった。ようやく、自分の生まれた地区の集いに参加できたのは去年のことだ。
それから祖母の家のあった場所をめざして歩いた。思っていたより遠かった。変わったところ、変わらないところを数えながらたどり着くころ、これまでと違う感情が芽生えていることに気づいた。できなかったことだけでなく、できたことを見る気持ちがわいてきた。
子どものおかげだろうか。震災から30年がたち、子どもはあの時の自分の年と近くなった。自分が15歳のときより、ずっと大人びているような気がするけれど、子どもは子どもだ。頑張って、成果がでていれば嬉しいし、そうでなくても、頑張ろうとしていること自体に励まされる。そんな日々があるから、あの時の自分を15歳の子どもの一人として見なおせるようになったかもしれない。
過去の不足の部分は変わらない。取り返しがつかないこと以外は、大人になった自分が、今からでも頑張ればよいことだと思いたい。
タイトル
「原点」を歩きなおして
投稿者
安岡健一
年齢
45歳
1995年の居住地
神戸市東灘区
手記を書いた理由
その後、いろいろあって歴史の研究者になった。人に記憶を語ってもらい、記録することの意義を書いたりしゃべったりしている。その割に、自分は震災の経験についてまとまって書くことはできなかった。昨年、関西学院大学の学生たちが震災の記録を作っているのに触れて、背中を押された。いざ当時を思い出そうとすると、実にあいまいだ。それでも、記憶が薄れていると言われると抵抗を感じる。震災の記憶は、輪郭や細部がどれほどおぼろげで、時に誤りさえ含んでいても、核となる部分で自分のものの見方を作っており、これからやるべきことの「原点」になり続けているからだ。