今年出会った本、宮地尚子・著『傷を愛せるか』(筑摩書房)の中の一説「弱さを抱えたままの強さ」について考えている。
1月17日は夫の誕生日。彼はあの日、運転免許の更新に行くために有給休暇をとっていた。そのため、まだ布団の中にいたことが私たちの命を救うことになった。普段なら私は台所に立ち弁当を作っている時間帯だった。古い木造2階建ての自宅は全壊したけれど、命があったことに、夫と2人感謝した。
徒歩15分ほどの場所に夫の両親が住んでいた。瓦が落ち、少し傾いた加減で押し入れが開かなくなっていたけれど、その家で数日間過ごした。電気が通っていたのでTVで情報を得ることもできた。私たちは家が全壊したにもかかわらず避難所生活を経験していない。
夫の両親を故郷の姫路に送り届けたあと、私の実家のある岡山県に一旦避難した。無くしたコンタクトレンズを作ろうと入ったメガネ店では料金をサービスしてくれ、家財道具を運ぶために借りたレンタカーも半額にしてくれた。被災した私たちに皆が優しかった。
自宅と仕事場の両方を無くした方に比べたら、サラリーマンだったことは幸いだと思った。住む家はなくなったけれど、1月末には給料が振り込まれていた。
前年の秋、私は初期の流産をしていた。もしあのままお腹に子供がいたら、震災後の生活は大変だったかもしれないと思うと、あの時の流産が幸運なことに思えた。
他にもたくさんのよかったと思える経験をした。その度によかったね、ラッキーだったねという私に、なんでお前はそんなに楽観的なことばかり言えるんや、俺ら、家、全壊したんやで、と夫は言った。そうかなあ、全てのことに感謝がつきまとっているやん、と私は思っていた。
発災後すぐに大阪の会社に出勤し、心細い時期に一緒にいてくれなかったと離婚した友達がいた。それだけが離婚理由ではないかもしれないが。対照的に、会社行かんでいいん? と心配になるぐらい、夫はずっとそばにいた。
夫は、物事を慎重すぎるほど慎重に考える人で、マイナス思考にも程があるとイラッとすることもしばしば。大災害にあい、悲惨な経験をしているのに、私の態度がヘラヘラしていると映っていたようだった。震災の1年前に結婚しているので、震災後の30年と私たちの結婚生活はほぼ重なっている。優しい人だと思ってそれが結婚の決め手になったはずなのに、優しい=(イコール)弱い、と感じて呆れたり腹が立ったりすることの繰りかえしの30年だった。その反面、この人強いなあ、と助けられることもあった。
「弱いままで強い」とは夫みたいな人のことを言うのかもしれないと、漠然と思う。
大雑把な性格だったはずの私も、最近では、些細なことにこだわったり、くよくよするようになってきたと感じることがある。歳のせいなのか。30年一緒に暮らしていたことで、彼に影響を受けたりしたのだろうか。
30年という年月はそれくらいの長さなんだと思った。
タイトル
弱さを抱えたままの強さ
投稿者
風
年齢
62歳
1995年の居住地
兵庫県芦屋市
手記を書いた理由
手記の公開が始まり、少しずつ読み始めていた時、誕生日が1月17日の祖母を持つ方の手記を見つけました。夫も同じ日の生まれです。手記の中のおばあさんと同じように、祝いはせんとってくれ、と言い、複雑な気持ちを抱えながら毎年1月17日を迎えていました。そのことを書こうと思っていましたが、書くうちに今回の手記ができました。