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当時、私は中学1年生でした。家族は両親、兄2人、妹の6人家族で神戸市須磨区の平屋に住んでいました。なんとなく目を覚ました時に揺れだしました。激しい揺れに驚くばかりでした。家族全員怪我はありませんでしたが、震えは止まりませんでした。その後、車に避難し、カーラジオで情報を聞いていました。兄がコンビニでいなりずしを買って来ました。これが地震の後、最初に食べたものだと思います。そのため、今は何となくいなりずしは避けてしまいます。

避難が必要かと思い小学校に行ったものの、体育館は人が一杯だったので、家で過ごすことにしました。なんの根拠もありませんでしたが、3か月経てばどうにかなると思っていました。ただ、何か分からないけどショックを受けていました。

3日ほどで小学校に食料が届きだしました。1週間後には中学校が再開しました。少しずつ、日常生活が戻っていったように思います。

しばらくしてから、須磨駅前に「がんばろうKOBE」の横断幕が掲げられました。初めて見た時、とても励まされました。また、中学校でもらった広報にイチロー選手からのメッセージが載っていました。「苦しい時には息を吐きます。辛い思いや苦しい思いを息に乗せて吐き出します」という内容でした。とても印象に残っています。

自宅は半壊と判定され、夏頃に近くにマンションに引っ越しました。あちこちで解体作業が行われており、埃っぽいにおいがありました。今でも、解体現場でそのにおいをかぐと胸が苦しくなります。

大学進学で県外に行きました。ここの人達は地震を知らないのだと不思議な気持ちでした。神戸では、口には出さないけれど、地震を経験したという共通認識があったように思います。出身地を聞かれた時に「神戸」と言うと、「地震経験した?」「親死んだ?」と言われショックを受けました。何となく地元に帰りたいと、就職は神戸に戻りました。

地震を経験したものの、家族は無事、家も半壊ではあるものの生活ができていました。時間が経てば、元通りに近いような生活を送れていました。ショックは受けているのに、どこか引け目を感じていたように思います。そんな中、同じような状況の人が被災したことを語れないという記事を見ました。その人はホームページでその思いを語っていました。同じ思いの人がいると安心したのを覚えています。

震災を語る機会もなく、テレビの特集も何となく避けてしまいます。それでも、あの寒さ、空腹、明日どうなるか分からない不安は覚えています。30歳を過ぎた頃、地震を経験する前より、地震を経験した後の年数の方が長くなったことに気づき、何とも言えない思いがしました。

たまたま平屋だった、物資が届きやすかった等、様々な条件が重ねって生活できていたのだと思います。今、同じ地震が起こったらと思うと不安になりますが、備えはしていきたいと思います。

タイトル

当時のことと年数が経ってからのこと

投稿者

石見幸子

年齢

42歳

1995年の居住地

神戸市須磨区

手記を書いた理由

中学1年生(13歳)の時に神戸市須磨区で震災を経験しました。家族全員無事でした。いろいろと指示をする親が頼もしかったです。鮮明に覚えている部分もあれば、忘れている部分もあります。大学進学時に神戸を離れましたが、就職で神戸に戻ってきました。その後、結婚して2人の子供がいます。震災当時の親の年齢に近づいています。今、地震が起こったら同じような行動がとれるのだろうかと思います、子供の小学校では1月17日に追悼式典があります。そのたびにいろいろなことを思い出します。今回、手記の募集を見て、30年経って思うところを書いてみようと思いました。