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1995年1月17日。
当時、地震や震災という言葉もそれが何なのかさえも知らない小学1年生でした。
小学生になって、ベッドと勉強机を買ってもらい、自分の部屋で1人で寝るようになりました。

その日も変わらず眠っていたら、すごい音と共に揺れて、何が起きたのか理解できませんでした。タンスが倒れてきて、ベッドのヘッドボードが支えになり、目の前でタンスが止まりました。恐怖から動けずにいると、「布団の中に潜りなさい」と母の声が聞こえました。しばらくして揺れがおさまり、母と兄と1階に降りると、ピアノの位置が変わり、テレビが転がっていて、食器棚に綺麗に並んでいたお皿やグラスが全部投げ出されて割れていました。すぐ家の中で靴を履き、着れるだけ上着を着て、頭までフードを被り、家にいることが危ないので、近くの神戸市立上野中学校の運動場に避難をしました。

この辺りは北を向けば山の緑、南を向けば海の青が広がる地域です。でもその日、運動場から見た景色はサイレンが鳴り響き、炎が広がっていて、辺り一面が赤に染まっていました。その向こうから朝焼けが目に差し込んできました。

私の阪神・淡路大震災の記憶は赤色です。この光景は一生忘れることが出来ないです。

この30年で、私も大人になり結婚をし、子どもたちにも恵まれました。
阪神・淡路大震災を経験してから、少しの余震にも体が敏感になってしまい、震度1を感じたり、震度3以上だと腰が浮くような感覚になり足がガクガク震えます。自然に涙が出てくることもあります。
守るものができたからこそ、命の大切さを更に感じるようになりました。

阪神・淡路大震災から30年。
息子が神戸市立上野中学に入学しました。
運動会があり、約30年ぶりに運動場に立ちました。
30年前、朝焼けに染まった運動場で不安と恐怖で怯えながら立っていましたが、今は笑顔があふれ子どもたちの元気な声が響き渡っていました。山の緑、海の青、そして顔を真っ赤にさせながらリレーを走っている子どもの姿がありました。

あのとき生かされたからこそ、生かしてもらえたからこそ、今があります。
人生には楽しいことばかりではないけど、生きてこそ明るい未来があると思います。
命のバトンは受け継がれていきます。
子どもたちには、自然の前では人間ははかなく愚かだということと、命の重さをこれからも伝えていきたいです。

タイトル

赤色

投稿者

chaikaman

年齢

37歳

1995年の居住地

神戸市灘区

手記を書いた理由

約30年ぶりに同じ場所に立つことが出来て、「生きていて良かった」と心から感じました。