阪神・淡路大震災が発生した時,私は京都の大学に通う大学1年生だった。大阪在住で、周囲の友人には神戸の大学に通っていて学生生活がままならなくなった人や、ボランティア活動に行った人もいた。私も何かしなければと思ったが、何もしなかった。できなかったのかしなかったのかわからないが、何もしなかった自分に罪悪感を覚えてもいた。本当に被災者のつらさがわからないのに偽善者じゃないか私は、とか思っていた記憶はある。
震災から3年後、大学で仲の良かった友人の1人が手の届かないところに旅立った。どのくらい悲しいのかわからないくらいふわふわした気持ちで,毎日を生きるのが不安になったり、でも、いつまでも悲しんでいたら彼女が悲しむから前向きに頑張らねばと思ったり、とにかく当時の私にとって世界が変わるほどの出来事だった。ずっとつらいし、それは27年経った今もつらい。
震災から8年後、震災資料の収集と保存を通じて震災の記録と記憶を考える団体があることを新聞記事を通じて知った。つらい記憶とともにどう生きていくのか……震災のつらさと、私が友人を喪ったつらさは同じではないとしても、何か通じるものがあるかもしれないと思い、連絡をとった。短い間であったが活動にも参加した。「私と阪神大震災」と言えばこの時期のことが最も強く思い出される。その団体の活動を通じて出会った人々は、プライベートでは様々な形で阪神大震災によって影響を受けて人生が変わっていた。震災資料を残し保存する活動をしながら、他の災厄の記録と記憶についても議論・検討し、「防災」「後世への教訓」「頑張ろう」という言葉でまとめることでこぼれ落ちるものを丁寧に拾い上げ検討していた。その中で自分の友人のことも話した。少しほっとしたことを覚えている。大事な関わりだったが、震災10年の頃に私はここから離れざるを得なくなった。中途半端に残してきたものがあるような離れ方だった。
時は流れ、東日本大震災が起こり、震災が阪神・淡路だけを指すものでなくなり「阪神・淡路でも震災はあったよ」と言いたい気持ちになりつつ、30年経とうとするいま、やはり私は阪神・淡路大震災について何もわかっていないとも思う。友人のことは忘れていないが、当時ほどの強い感情は薄れて忘れつつあるのも感じ、それは阪神・淡路大震災についてもそう思う。私自身も結婚し子どもをもち、病気をして、いまは病気や障害について書いたり話したり啓発活動を少ししたりしている。つらいこと悲しいことはわかれや震災の他にもあり、その苦しみは他者にわかるともわからないとも言えず、助けることができるともできないとも言えない。ただ、つらくなかったことにして無理するのでなく、つらさを抱えて苦しみながら時を過ごしていくもので、その時に誰か・何かがともに在ることが生きる支え・理由になり得ていると感じる今日この頃である。
タイトル
8年後の神戸と30年後の神戸と私-震災のつらさと私の経験したわかれのつらさ-
投稿者
橋本京子
年齢
49歳
1995年の居住地
大阪府茨木市
手記を書いた理由
阪神・淡路大震災発生当時に何もできなかった罪悪感と、その後被災地について何も知らず忘れていたことへの罪悪感から。震災8年後に出会った震災資料保存グループとの出会い・思い出・別れを自分の中でうまく消化できていないこと。震災の直接の被害は小さかったが、私の人生には影響を及ぼしたので、ここでこんなふうに震災30年と向き合っている私という存在を知ってほしい気持ち(自己アピールのようで恥ずかしいが)。教訓や防災という言葉でまとめられたくなく、向き合い方も残し方も正誤はないしそれぞれでいいと思うこと。X年後に震災をどう思い出しているか、30年後の手記を残しておいて比較してみようと思ったこと、など。