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12月初旬、東遊園地へ行った。毎年追悼行事が行われるこの地はニュースで何度も目にしていたが、来るのは初めてだった。普段はスマホで撮影することの多い私だが、地下の「瞑想空間」の犠牲者の銘板を前に、安易に撮るべき場所ではないことを悟る。その後「希望の灯り」を前に、厳粛な思いで手を合わせた。心中では申し訳なさも感じていた。犠牲者には自分と同い年の人もいる。自分のような人間よりもよほど生きる価値のある人々だったろうに、と。

震災当時、私は小1だった。住んでいた東大阪は現在の基準では震度5弱と記録される揺れだったにもかかわらず、呑気にも私は目が覚めず、下階から上がってきた父の声で起こされた。

「おもしろそう……」
その日から連日伝えられた被災地の映像に、幼かった私は思わずそう言ってしまった。
怪獣映画を想起したことによる悪気のない言葉に、両親はショックを受けた様子だった。実際に被災地の惨状を見れば気持ちが変わると思ったのか、発生から約1ヶ月後、両親は車で私を尼崎市へと連れて行った。ミラー越しに見た、横倒しになった白いマンションの姿は今も目に焼き付いている。

「被災した人ら大変なんやで? 全然面白くなんかないやろ?」
帰りの車内でそう言う母に、私はうん、と答えるしかなかった。が、本心は特に変化はなかった。私が人の気持ちを汲み取りにくい特性をもつ発達障害の診断を受けるのは、それから十数年後のことである。

被災地に親類縁者のいなかった私にとって、阪神・淡路大震災は傍観者の立場でしかない。しかし同じ関西で起きたことであり、のちに関わった人々から震災にまつわる話を聞く機会は多かった。震災で転居していた他県でいじめを受けたこと、外地からの労働者による性犯罪があったこと、富裕層は体育館ではなく教室を避難場所としてあてがわれていたこと――。真偽のほどはともかく、嫌になる話ばかりだった。

これまでの30年間、命を大事にして生きてきた人生ではなかった。にもかかわらず運だけは良く、死のうとしても直前で引き戻されたことがあったし、6年前の大阪府北部地震の時も、東京で生活していたので被害に遭うことはなかった。

悲惨な天災は今も後を絶たない。今年の元日も能登で大きな地震が起きた。自分のようにいい加減に生きてきた人間が報いを受けず、普通に暮らしている人々が理不尽な目に遭う。そうした事実に罪悪感を覚えるようになり、10年ほど前から大きな天災や事件が起きるたびに関係団体へ寄付をするようになった。だが、寄付は最も容易く冷たい支援なのだと思っている。お金に温もりはないからだ。

30年目を迎える来月にかけて、震災について積極的に調べ、改めて戒まねばならないと思っている。生きたくても生きられなかった被災者の方々への、せめてもの供養として。

タイトル

申し訳なさからの黙祷

投稿者

寿限無

年齢

36歳

1995年の居住地

大阪府東大阪市

手記を書いた理由

たまたま立ち寄った三宮図書館で今回の企画を知りました。元々書くことが好きで、過去にも3.11の「10年目の手記」に投稿・採用された経験がありましたので、何かのご縁を感じて執筆を決めました。
多様性が認められつつある昨今、私のような異端かつ部外者の手記が何らかの気付きや学びへと繋がれば幸いです。