Loading

1995年1月17日、芦屋市津知町で暮らしていた我が家は全壊。7歳の長男と5歳の長女が逝ってしまった。「なんで地震が我が家に来たのか」「あの地震さえなければ」との思いは今も全く変わることはない。30年の歳月が経ち、2024年12月長女は生きておれば35歳、当時の私の年齢を超えた。

しかし、35歳の彼女、37歳の長男の姿を思い浮かべることができない。私と妻にとって7歳のまま、5歳のまま。あの震災が時間を止めてしまった。長男や長女の友が成長して大人になっていくことを見ると、眩しい反面何とも言えない寂寥感せきりょうかんを伴い複雑になる。

逝ってしまった子のために生き残った自分に何ができるのかを探していくことが、私の震災後の命題であった。震災前から出会い今もつながり続けていただいている音楽座ミュージカルや震災後に出会ったHANDSのメンバーとの関わりを支えとし、芦屋の小学校から始まった阪神・淡路大震災を知らない子どもたちと語り合い学ぶことが、逝ってしまった二人とともに在り、できることだと思っている。当事者でないとわからない、体験していないからわからないという壁をそれぞれが超えて考えつながる。子どもたちとの学びは私に可能性を大いに感じさせてくれるものであり、これからも大切に育んでいきたいと思う。

それは私一人の手でできることではなく、止まった時間を超えてともに在り続けてくれる長男・長女の力を改めて感じるこの頃である。

ある小学生は私に「米津さんのゴールは何ですか」と問うた。

「過去(ここでいえば阪神・淡路大震災)を知り、語り合い、聞き合い、今の自分を見つめ、未来の自分を描く。震災を軸とした学びを広げ、つながりを作り、続けていくことにこだわっていく私にゴールと呼ぶものはない」と答えた。

私が生きている時間が止まっても私とつながった誰かが私や長男・長女が共に在ると信じているから。

タイトル

止まったこと、そして歩んでいること

投稿者

米津勝之

年齢

64歳

1995年の居住地

兵庫県芦屋市

手記を書いた理由

これまで様々な人との出会いを重ね、歩み続けてきた自分は30年だからと問われることに正直違和感を強く感じる。
一方で続けてきたこと、続けていくことの意味を自分なりに整理したいという欲求もあり、綴ってみようと思う。