ゴォーという地鳴りで目を覚ます。とてつもない揺れに一瞬でベッドから弾き飛ばされ、なす術なく必死で頭を抱え転がる私の上に飛んできたテレビや家財が降りかかる。仰向けに見上げる天井と壁の角は90度以上と90度以下を繰り返し、もうダメかもと死を覚悟。揺れは何十秒にも何分にも感じられる。収まった後も腰が抜け暫く立ち上がれず。理解出来ないままベッドの下のラジオを取り出しスイッチを入れる。大阪のスタジオの棚や京都の三十三間堂の仏像が倒れただの、肝心の神戸の情報はなし。なんだ、意外と大したことないのか。漸く滅茶苦茶になった部屋を片付け始める。物を片付ける音がそこかしこから聞こえる。
やがて空が白み窓を開けた私の目に柱が傾き瓦が落ち潰れた数々の家屋が一帯に広がる目を疑う景色が飛び込む。携帯電話もない時代。そこからは倒壊した隣家の住人を皆で救出したり公衆電話に1時間並び田舎の親に無事を知らせる電話をしたり。外で偶然会った友人から口伝えで近しい人の安否を確認し合う。信号が止まり道路もあちこち塞がれ救急車や消防車のサイレンもしない異様な静けさ。上空を飛ぶヘリの音だけが耳に届く。一変する街に人々も一様に慌ただしいが平静かつ整然。晩は近くの小学校で寒い夜を過ごす。
深夜に関わらず自衛隊からパンなどが届く。素早い支援が心に染みる。毛布にくるまるが冷たい廊下では眠りにつけず校庭の焚き火に悴んだ手をかざす。時折雪がちらつき夜明けを迎える。一時神戸を離れ親族宅に身を寄せることに。国道2号線を伝い西宮北口を目指し歩く。渋滞で動かない車列の横を、同じような境遇で神戸から出る人々と、大きなリュックを背負い神戸に入ってくる人々とが絶え間なくすれ違う……。
タイトル
あの日の記憶
投稿者
浅野佳春
年齢
51歳
1995年の居住地
神戸市灘区
手記を書いた理由
先日の日経新聞の記事で震災の手記を募集している旨の企画を知りました。当時大学3回生だった私は、神戸市灘区の下宿先アパートで被災しました。幸い建物は半壊で無事でしたが、震災では尊敬していた大学のゼミの先輩を亡くしました。以来、仕事で全国いろいろな場所に移り住んできましたが、毎年1月17日はどこにいても寝床の上でも朝5時46分に起きて手を合わせることを続けてきました。あの時自分が神戸で暮らし体験したことを語る意味があるのか分かりませんが、震災から30年の節目を迎えるにあたり、記憶を記すことにしました。