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震災当時、私たち家族5人は借家住まいだった。幸いにして住まいは倒壊せず家族全員無事だった。すぐ近くに住む祖父母宅は全壊したが、祖父母らに怪我はなく助かった。しかしながら、被災の心労がたたり祖父は数ヶ月後に亡くなった。再建した家に戻れたのは祖母ひとり。家は再建したものの独居に不安を覚えた祖母を見て、父が隣に家を建てることを決めた。私たち家族にとって持ち家は青天の霹靂へきれきだった。自己資金が少なかったため親類にお金を借りたりローンを組んだりした。新築の家に転居した矢先に、父の勤務先が倒産した。私は奨学金で学校を出たが、妹と弟は進学を諦め働き始め、程なく結婚した。父と私は就活を、母は祖母の介護をすることになった。父は再就職を諦めフリーランスで仕事をすることになった。私は非正規雇用を転々とした。

母が祖母を在宅介護で看取った後、父は相続の手続きをしたように見えたが、未解決のまま現在に至っていることが後になってわかった。それは父の姉が認知症になったことを知らされた時だった。父には年の離れた姉が2人いる。上の姉は健在で下の姉が認知症である。震災から30年、祖母が亡くなって20年ほど経つ。現在住んでいる土地は、戦後父一家がようやく落ち着いた場所だ。戦災や天災の有無にかかわらず、同じ場所に暮らすということの困難さを改めて感じる。私も父が被災し失業した当時の年齢になった。このままではここに長く住み続けるのも難しそうだ。衣食足りて礼節を知るためには、まず働かねば。そしてこの国の相続制度は職探しに忙殺されている人には、煩雑で易しくはないのである。

タイトル

被災地と周旋屋

投稿者

廣田編子

年齢

51歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

震災直後は命が助かったことに感謝し、その後なぜ生き残ったのか罪悪感に苛まれ、気がつけば職探しばかりの30年だった。それは今も続いている。衣食足りて礼節を知るだけでは済まない課題に直面。就活よりも終活に着手する年齢になったことを実感しながら、備忘録として書いておきたかった。