あの朝、まずドンッ!と下から突き上げる振動で目が覚めました。その直後、経験したことのない揺れで身体が左右に揺さぶられ、起き上がることもできず、ただただ布団にしがみついていました。窓のサッシの掛け金が「パン!パン!パン!」と音を立てて開いていくのを呆然と見ていた記憶があります。ゆっくりと家が傾いていくのを、何となく感じました。
前年11月に新築したばかりの家で、洋室のフローリングにマットを直接敷いて5歳、3歳、1歳の子どもたちと並んで寝ていました。3人は何が起こったのか分かっていない様子でした。ただ、今回当時5歳だった長女に聞くと、その後のことも含めかなり鮮明に覚えているようで、次のように表現してくれましたので、そのまま記します。
「お父さんがワーッて言いながらマットレスごと隣の部屋に滑っていって、揺れが収まった後にパジャマの上からスキーウェア着せられて、靴下2枚履きなさいて言われた。2階に降りたらテレビが飛んで落ちてて、冷蔵庫は倒れてキッチンのカウンターに寄りかかってた。小学校の体育館の真ん中に照明が落下してて、そこには近づくなと言われ、他の子供たちとステージに上がったりして遊んでた。お母さんが家から見つけてきた丸い大きなカンカンに入ったクッキーを食べた。車で大阪のおばあちゃん家に行く途中、おしっこしたくなったけどおトイレには行けないからオムツにしなさいと言われてオムツにした」
とても長く感じた揺れが収まって、とりあえず立ち上がりました。開いてしまった窓からは、煙のような埃のようなものが流れ込んでいました。ただ、その時は周りからの音は何も聞こえず、街全体がとても静かだったことを覚えています。
玄関まで降りると、ゆがんで扉がうまく開きませんでしたが、夫と何とか外に出ると、お向かいのご主人が「子どもたちも大丈夫?」と声をかけてくださいました。6時半頃でしょうか。その頃になると辺りが明るくなり、周りも状況も分かると、次第にざわついてきました。車のラジオからは「京都で震度5」とのニュースが流れてきました。2軒先の木造アパートは崩れ、隣の古いマンションは傾き、亀裂だらけの道には電柱が倒れて電線が垂れ下がっていました。
神戸大学近くにある私の実家に徒歩で向かいました。両親と祖父にケガはありませんでしたが、もちろん、水道も電気もガスもだめだったので、大阪市内の夫の実家に向かうことにしました。昼過ぎに出発し、到着したのは夜中でした。途中、武庫川を渡ったあたりから街の灯りが普通になってきて涙が止まりませんでした。
今でも震災の記事を見ると自然に涙が出ます。生まれ育った神戸はたくさんのものを失いました。ただ、家族にケガがなく、今も元気に暮らしていることは本当に恵まれていたと心から感謝し、これからも大切に生きていきたいと思います。
タイトル
あの朝から30年が経ちます
投稿者
みちこ
年齢
60歳
1995年の居住地
神戸市灘区
手記を書いた理由
当時30歳だった私は今年還暦を迎え、これからは、震災前より震災後を長く生きることになります。震災をきっかけに離婚したこともありますが、良くも悪くも人生観が一変した経験でした。形あるものはいつかなくなる。そしてそれは何の前触れもなく突然起こる。そのことを意識して自分を大切に正直に生きてきた30年でした。日本や世界で、様々な災害のニュースに接すると胸が締め付けられます。でも、命さえあればきっと大丈夫。あの朝のことを改めて残すことで少しでも伝えられることがあればと思い、記しました。