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5時46分の後、全壊の2階から脱出。主人と私と18才の息子は無事。姑は1階で下敷きに。外国人を含む数人の男性が現れた。私が充満したガスで爆発しますかと質問。この程度なら大丈夫と。即安心。支えられて隣の庭に。近所の寮の者ですと言われたが天からの助けのように思った。

姑の場所確認後、主人が腹這いで潜り込み進む。余震で主人が押し潰される瞬間に足首を引っ張り出すように息子とその人達で囲んで。その命懸けの活動中ただつっ立って待つ私の前に見知らぬお婆さんが裸足で。はいていた熊の顔のスリッパを渡してどうぞお気を付けてと普通に見送った。出来る事をするということがそれぞれにあるものだ。目の前の人とつながる事でどんな状況でも自分を保つ事が出来る。足元にあったシートで裸足を包んでいたら隣の神社からスリッパが与えられ戸板に乗せた姑を病院へ運べた。病院は全壊。横の車販売店の玄関に降ろし、息子をつけて、私と主人は一人暮らしの実母の無事を確認。

家に戻ると向かいのお婆さんがまだ下敷きとの事、主人が潜り救出。顔を撫で呼ぶが亡くなっていた。近所の親類の無事を確認。畳に乗せた人を中学校に運ぶ。夕方友人夫妻がおにぎりとお茶を届けてくださる。実母を連れて全壊の病院の南の自家発電可能なガラス張りのビルへ。1階全体が病室に。

明るいトイレには数台の便器。便座ギリギリの山盛りの便。そこに女性が現れ、すくう物はないですかと聞くと、探してきて渡された45ℓのゴミ袋の束。口を広げ床に置く。ゴミ袋二重で腕2本にはき、汚物を抱え込んで入れるという提案。素直に実行。余震で中断。袋を脱いで廊下へ。匂いに負けたのか女性はどこかへ。防火用水の水と新聞紙で便座を拭き使用可能に。断水中に手を汚すと絶対絶命。おにぎり1個ずつの食後で良かった。5日程度食欲が戻らなかった。見知らぬ女性と対話し潔癖症の自分を越える作業が出来た。

翌日の午後北区の主人の兄が迎えに。姑は入院まず安全。夕方、実母と私達は中学校へ。トイレを見た瞬間一人では無理と声かけし多数で実行。避難所名簿は住所氏名記入の紙を束ねた物。知人を探しに来た人に懐中電灯で不在確認後、周囲の学校へ同行。地震恐怖症の私が予震の夜道を知らない人と対話しながら歩く。

帰りは一人。勇気付けに大脱走のマーチを口笛で響かす。何人かを案内中、1人の男性から仕事は何をと聞かれ、1年前からナースではないが外科医院で診察助手をと返答。ドイツ語でその仕事はプレーゲリングというと教わった。その時気付いた。尊敬する医師と先輩達に付いて、強い私に生まれ変わっていたのだと。13年勤務後、病院、工場、介護施設、発達がゆっくりの子供達の学園で71才まで勤務。生まれてからこれまで様々な場所での目の前の方達とのつながりで、72才近くまで生き延びてこられた気がします。途絶えている方達とつながれる日を信じて。

タイトル

とりあえず目の前にいる人をつながろう

投稿者

嵐延子

年齢

72歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

どんな時でも、このタイトルにあるようにすることで、弱い自分であってもとりあえず自立可能ということを実感しつづけて生きてこれたのでそれを伝えたいと思い手記にしました。