平成7年1月17日早朝、恐怖のあまり、2度叫んだ。寝ていたベッドが激しく揺らされ、映画『エクソシスト」のワンシーンが脳裡をよぎった。世界でたった一人、私にだけ起きている心霊現象だと思った。
実際は、とてつもなく大きな規模で、多大な犠牲をもたらした大災害が起きていた。
余震もまだおさまりきらない頃だったと思うが、母親が病院に検査に行くというので、北区の自宅から兵庫区の病院へとバスで向かった。通常なら30分位の所要時間だが、当時は2~3時間を見ておく必要があった。元々、トイレの近い私は午前中から水分を控えていた。バスの中で尿意を覚えるのが不安だったからだ。病院での母親の検査は短時間で終わり、すぐに帰りのバスに乗った。電車はまだ復旧しておらず、バスは満員だった。やはりひどく渋滞していて、立ったままの数時間はきついが、運行してくれているだけでも幸いなのだ。「あと30分位でバスを降りれる」
ぎゅうぎゅう詰めの車内でそう思った。熱気で汗を少しかいた感じもあった。次の瞬間、立っていられなくなったが、倒れはしなかった。倒れ込むほどのスペースはなかった。誰かが席を譲ってくれてそこに座った。頭がぼんやりして意識が薄れてゆく。手が痺れるとつぶやくと、側にいた女性(多分側に来てくれた)が、「私が看護師です。脱水症状だと思います」「どなたか飲み物をもっていませんか?」と言ったのを覚えている。自分では脱水症状を初めて経験するので、このまま死んでしまうのかなと思った。思ったが、頭がはっきりしていないので不安や恐怖はなかった。次々運ばれてくる水、お茶、スポーツドリンクをごくごく飲んだ。そして気を失いつつ、ありがとうございましたと心で言った。
停留所に着いた気配でふらふらしながらも目覚めてバスを降りた。側にいてくれた看護婦の人が声をかけてくれた。なのに私は多分お礼を言っていない。席を譲ってくれた人にも、飲み物を差し出してくれた人達にも。
何とか自宅にたどり着き、水道の蛇口から水をがぶ飲みし、ベッドに倒れ込み、気づけば次の日の朝だった。その後も震災ならではの大変さはあったものの、新聞に投稿するだとか、お礼を述べる手立てはあったはずだ。一人一人にお会いしてお礼な無理にしても、何もせずに来た事を反省している。
あの時は本当にありがとうございました。大変遅くなりましたが、今思い出しても感謝の気持ちでいっぱいになります。「恩送り」という言葉を知ってからは、困っている人を見かけたら声をかけたり、手を貸せそうなら手を貸したりと自分に出来ることはしようと心がけています。
タイトル
バスで倒れる
投稿者
武藤むう
年齢
60歳
1995年の居住地
神戸市北区
手記を書いた理由
お世話になっておきながら、30年もお礼の言葉を述べることなく過ごして来たことを恥ずかしく思う。けれどもこういう機会があり、感謝の言葉を記すことができて、有難く思います。手記の募集を見た時に、あの時バスに乗られていた方々の目にはとまらないかもしれないけれど、自分の感謝の思いを表したいと応募しました。