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30年。その歳月が今も「生きている」「生きてここに在る」と生き続けられた喜びをかみしめさせてくれる。

あの日、自宅は全壊。次男だけ軽傷を負うが、家族全員(夫の両親、2人の息子、私達夫婦7人)無事だった。私と長男を除いて、家具の下敷きになった。小学3年生の三男は、隣に寝ていた義父の「炬燵こたつに潜れ」の声で圧死を免れた。ホーム炬燵の上には、洋服ダンスと和ダンスが重なるように倒れ、炬燵は原形をとどめていなかった。炬燵の1本の足が半分に折れながらも、息子を守ってくれた。

数か月間は、市内や他市の親せき宅に身を寄せ、家族が離散して暮らした。「家族そろって生きていた」そのありがたさを心のバネにして、7人が一緒に生活できる賃貸マンションを探し回った。実家に預け、私が卒業した小学校と中学校に仮入学していた三男と次男からは、「早く長田に帰りたい。友達に会いたい」と今にも泣きそうな声が届いた。中学2年の次男は、2人の級友を失った。卒業式、友に抱かれた遺影を義母と嗚咽しながら見続けた。「もっとサッカーをやりたかったよね。忘れないよ」。心の中で繰り返し声をかけながら。

春が訪れる頃、ようやく仮住まいが見つかった。7人揃って、新しい生活の第一歩を踏み出せる。喜びはひとしおだった。三男は、北区寄りの仮住まいから、片道1時間近くかけて友達の待つ小学校へ通った。義父母に支えられ、必死に働く私達夫婦の収入は瞬く間に消えていったが、「自宅再建」の切なる願いは、家族の絆を深めていった。

業者も決まり、順調な運びを期待して、家族の会話も弾んだ。ところが急に工事中止の連絡が入る。自宅に隣接している地盤の緩みなど、いくつかの障害が出てきたらしい。「もう再建できないかもしれない」。不安や焦り、苛立ちが募り、家族間で心の亀裂が入り出す。義母と私は体調を崩し、通院するようになる。職場で休暇を届け出ると、上司に被災者の甘えと、激しく指摘された。帰り道、悔し涙が止まらなかった。

年が明けても進展はなく、時間は過ぎていった。初夏に差しかかる頃、業者と打ち合わせを重ねていた夫から「再建できる」の吉報が入る。仮住まいのぎすぎすした空気が一転し、笑みが戻る。

自宅再建後、もうすぐ27年。44歳で被災しながら生きてこられた。後期高齢者入りを目前にした今、祖母の立場を越えて一人の被災者として孫に伝えたい思い、残したい言葉がある。「生きている喜びをかみしめれば、必ず希望が湧いてくる」。あの日の夜、避難所に迎えに来てくれた義弟の車内で流れてきた曲「明日に架ける橋」。後部座席で涙をふくことも忘れて聴いた。曲の歌詞のように、傍にいる家族や友人に心を委ね、そこに橋が架かれば「必ず希望に満ちた未来が見えてくる」。

タイトル

明日へ

投稿者

塩谷千明

年齢

73歳

1995年の居住地

神戸市長田区

手記を書いた理由

手記を書くことを一念発起した理由は、2つある。1つは、一昨年と昨年に相次いで他界した夫の両親への感謝の思いから。2つ目は、被災した当時中学生だった次男の息子が同学年になったので。
義父は、あの日夫や長男と共に、崩落したアパートに救出作業に向かった。翌日からは、様相が一変した自宅や近隣の家々、道路を撮り続けた。その中の1枚は、防災センターに展示されている。義母は、近所を回りながら中学や高校の女の子達に声をかけ、一時避難していた義弟宅の浴室を提供した。
震災で中学の友人を、同時多発テロで大学の友人を失った次男の息子も多感な年頃になった。今だからこそ、伝えたい事がある。