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私は1995年の秋に香川県の高松市で生まれた。中学校の卒業式の日、東日本大震災が起きた。高松は全く揺れず、私は卒業式後のクラス会から帰宅したあとに大きな地震が東日本であったことを知った。

大学進学に伴い、京都に移り住んだ。神戸出身の知人や友人は関西で生活していれば自然とでき、神戸に遊びに行くこともあったが、震災のことはあまり意識してこなかった。

このように、私は震災に対してあまり考えたことのない人間だったが、「当事者性」、「語れなさ」というテーマを通すことで、少し自分に近づけて考えられるようになった。

私には知的障害のある弟がいる。医学的な定義の上では、弟は知的障害の「当事者」で、私は「非当事者」だ。しかし、身近に障害のある人がいない人と同じ「非当事者」として括られることには抵抗がある。当事者にも非当事者にもなりきれないような、「語れなさ」。2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件に対しても、自分は明快な語りを持ちえない。

こうした「語れなさ」について考えていたときに目にしたのが、陸前高田市などで対話の場作りや作品制作を行ってきたアーティスト・瀬尾夏美の文章だった。瀬尾は様々な人たちから語りを聞くなかで、「当事者性の弱い当事者」の「語れなさ」にふれたという。「自分よりもずっと辛い体験をしている人がいるから」という理由、「自分は直接体験しているわけではないから」という理由など、その語れなさの背景には多様なグラデーションがある。

私は「障害」に対する当事者性よりもはるかに弱い当事者性しか、阪神・淡路大震災に対して持ちえない。障害に対する語れなさよりももっと手前の段階で、震災に対しての「語れなさ」がある。しかし、そのような語れなさとも、阪神・淡路大震災に関わってきた人たちはずっと向き合ってきたのではないか。そのような人たちになら、自分も少しずつ語り始めることができるのではないか。対面で会って話せた方にこうした自分のとりとめのない話をする中で、自分のような立場であっても震災について考えたり、語ったりしても良いのだと、少し思えるようになった。

震災から29年目の年、私は神戸に異動になり、東灘区に住み始めた。京都よりも涼しくて暖かく、大阪ほど人も多くない。徒歩圏内に山も海も街もある。なるほど、みんな神戸や阪神間に住みたがるわけだと、納得した。

しかし自分が住民になり、毎日街を歩くようになると、少しずつ印象が変わってくる。地震の被害の大きさと建物の真新しさのグラデーションを感じるようになり、神戸の人ではない私でも、たまにさびしさのようなものを感じるようになった。

いまはまだ、私が語れる言葉はほんの少しだ。神戸の空気、水、食べ物を口にし、神戸の人と話したり働いたりするなかで、私が語ることはどのように変わっていくのだろうか。40年目の手記を書くための、30年目の手記になればいいなと思う。

タイトル

「震災」とも「神戸」とも遠い、私の「語れなさ」

投稿者

髙木佑透

年齢

29歳

1995年の居住地

香川県高松市

手記を書いた理由

震災当時を知らなくても、地震で直接的な被害を受けたことがなくても、阪神間の都市や神戸、淡路島の人でなくても書いてよいということが良いなと思いました。今年、仕事の関係で神戸に移り住んだことも後押しになり、非当事者である私の「語れなさ」について書いてみることにしました。もし40年目の手記も書けるなら、そのとき自分が読み返してどんなことを感じ考えるのか、気になりました。