あれから30年経った。明らかに震災にあった人とあっていない人の心に隔たりがある。それは優しさに現れる。自分さえよければ何をしてもいい、そんな気持ちになれない。
30年前、私は中学生だった。友人が言った。「私たち、大人のときに震災に合わなくてよかったね」私たちは笑うだけで良かった。お風呂に入れてよかったね、バスが動いてよかったね、皆のおかげだね。
大人は、ありとあらゆる問題を常に抱えているように思えた。だが中学生から見ると大変だと感じたのは、大学受験を控えた高校3年生だった。避難所、仮設で水汲みを毎日するから勉強する時間がない、受かっても学費はどうするのか。
ようやく学校に行けるようになって六甲の山から見た神戸の夜景は真っ暗だった。昼はブルーシートの水色が光っていた。
戦争のとき10代の少女だった祖母が言った。「あなたがたはこんな体験ができてラッキーよ。こんなこと言ってはいけないのはわかっているけれど、戦争と一緒、あのときも何もない焼野原だった」
「これからどう復興するか見ることができる。戦争と同じ」
私たちもそうやって立ち上がってきた。だからあなたたちもよみがえる。
しかし死んだ人は戻ってこない。この街から離れていく人もいた。神戸という街の復興にお付き合いできた私は幸せ者だ。
地震のあった日は子供の声も車の音もなく、しんと静まり返っていた。
地震の翌日、夢を見た。大事な先生や友達が死んでしまった夢、目が覚めて大泣きした。皆にもう会えない。絶対そんなことはないとは言い切れなかった。当時スマホはなかった。誰が生きていて誰が行方不明なのかわからなかった。
長田に住んでいた数学の先生は焼け出された話を笑い話にしてくれた。箪笥が倒れてきて、天井から丸い蛍光灯が落ちてきて、すぽっと頭にはまって天使の輪みたいだったよ、それから奥さんに助けてもらったんだ。その直後に家が燃えて何もなくなってしまったけど、命はある、よかったよ。
先生、ダメだなぁ、奥さんさすがだね。本当に天使にならなくてよかったね。
皆と会えて嬉しいよ、着の身着のままでどうしようかと思ったけどこうして学校に来られて授業ができて嬉しいよ。
先生、何言ってるの、これからだよ。また皆で笑った。
社会人になって、当時5歳だったという若いお客さんに出会った。その子も長田に住んでいて、ちょうど道路を挟んで自分の家は火事にならなかったらしい。その子のお父さんが助かったと言っていたそうだ。何が助かったの、先生は焼け出されたのに、となぜか先生は死んでないのに涙が出た。
当たり前だった日常が戻ってくると人間すぐに忘れる。やっと水が出たときの感動、友達に会える幸せ、全く見知らぬ人たちと分かち合った喜び。
国語の先生は再開した学校ですぐに震災の体験作文を私たちに書かせた。1クラス分、今でも六甲の図書館に眠っているはずだ。
あのときを忘れない。
タイトル
シンサイノキオク
投稿者
イノナカノカワズ
年齢
44歳
1995年の居住地
兵庫県川西市
手記を書いた理由
ニュースで知りました。もっと大変な目にあった方々がいるので、役に立とうとか思わない。子供から大人になって、日々の暮らしを続けるにはどうすればいいかというものを知り、今までため込んでいた価値観や違和感を少しでも吐き出せればいいと思いました。