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私の1月17日と、その後の活動、そして今思うことを記します。

1月17日の早朝、前日16日に満1歳になった息子のおむつを替えようかと半身を起こした瞬間だった。地響きのゴーッという音と共に、首根っこをつかんで振り回されてるような状態で、必死で子どもに覆いかぶさった。長く感じた揺れが収まり最初に言葉に出たのは「今のなに!?」。地震とは思えない、体験した事のない揺れに、心臓がずっとばくばくした。夜になって私たち親子は近くの小学校へ避難した。毛布をかぶって運動場でうずくまっていた。入れる場所は人でいっぱいだったし、それより建物の下に入ることが怖くて。1歳の息子は私の腕の中ですやすや眠り、聞こえるのはあちこちから救急車の音。人がたくさん避難してきているはずなのに、静かで、とにかく月が澄んでいたことが記憶にある。

その後、しばらく県外の知人の家に避難させてもらっていたが、3月後半に神戸に戻ってきた。息子は、そのころ公園デビューという表現をする頃になっていたが、公園の横のマンションは崩れたまま。秋に公園で遊んだみんなは無事だろうか。今ほど、つながりをつくるツールもなく、いてもたってもいられず、「子育てネットワークあおいとり・一緒に遊びませんか?」とポスターをつくりあちこちに貼ってみた。私のように、子育て中で休職中、家は無事、父親の仕事もあるため昼間は、母と子どもが不安な日々を過ごしている、そんな人たちが集まって輪が広がった。拠点は近くの児童館が場所を提供してくれた。行政の支援の隙間にいる在宅の親子に声をかけ、児童館に集まり子どもを遊ばせながら、最初は地震のときどうだったかしゃべりあった。○○さんは家族全員亡くなったよ、という悲しい知らせもあった。そのうち工作しようとか、絵本を読み聞かせしようとか、動物園が開いたので行こうとか……など、ネットワークと名付けたように広がりをもっていった。そのうち子どもたちは就学し、親の転勤、仕事の復帰など、少しずつ活動は小さくなり私も仕事に復帰し、転職し、小学校の図工科の教員になった。図工科の教科の中で、地震のことを伝える授業や防災を取り入れた授業をしてきた。また神戸の防災学習の副読本の表紙の絵を描く機会も与えてもらった。

今、この手記を書くにあたり、あの日から今日までを思い起こし、そしてこれからを考える手記に付けるタイトルは「また明日!」という言葉を選んだ。いつもの朝が来ることは、不確実であり予測のつかないことだと思い知った1月17日の朝。だからこそ、おまじないの言葉、「また明日!」 何があってもまた、新しい明日が来ますよう願いを込めて、阪神・淡路大震災30年目を迎えたい。

タイトル

「また明日!」

投稿者

前 有香

年齢

61歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

このイベントを知り、私も今一度考えてみたことを伝えたくて書きました。