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20代半ばで両親と共に被災。
現在と異なり防災に関する前例などほとんど無く、大混乱のなか避難所といえ公民館でパイプ椅子に座ったままの睡眠、トイレはあっという間に使えない惨状に。
携帯も無く公衆電話に長蛇の列。仮設住宅という言葉すら知らず、直ぐ大阪府内の会社関係の社宅へ転出するため電車が動いている地まで着のみ着まま徒歩で移動。
震度7の激震地、小さな町内だけで死者は30名を越えていた。
電車で移動した大阪は別世界、そして転出先の地は当事、震災については全く他人事、無理解だった。
両親は被災地に残り、集合住宅の後始末を放棄した住人の分も全て背負わされ、父は癌の発見が遅れ3年の闘病の末他界、遺された母は心病み亡くなるまで震災の話は一切しなかった。
両親ともひと言も全てにおいて震災のせいだと言わなかったが、震災がなければせめて平均寿命近く生きられただろうに、しかし震災関連死と思うのは遺志に反する気がして、銘板に名前すら残されず30年。

6年前、デザインクリエイティブセンターで石井麻木さんの個展で松原裕さんを知り、末期癌の身で神戸から全国の被災地へ「神戸からの恩返し』を掲げ、「カミングコウベ」で音楽を通して大規模な支援活動を続けていることを初めて知り、自分一人の不幸にフォーカスしていた視点が引っくり返る衝撃で、亡くなられた後もずっと支援活動が受け継がれ、ボランティアひとりひとりの尽力も目の当たりにして、もう即戦力となれる体力はないけど、30年前に生き残り、あと少し生きられるとしたら、わずかでも募金しか出来なくても、未来の人達へ還元したいと願っている。

タイトル

天災と人災と恩返しと

投稿者

コン

年齢

57歳

1995年の居住地

兵庫県西宮市

手記を書いた理由

当事者でなければ30年後も後遺症で苦しむことなど想像も出来ないと思い、しかし一方で当事者でなくても支援活動に命を捧げた人達の事も絶対に忘れぬよう記したいと思ったので