先日、神戸空港を久しぶりに利用した。
昼の便を利用し時間に余裕があったため、展望デッキに上がり、展示アートを一通り楽しみ、飛行機を少し眺めて山側へ振り返った。
海から橋が伸び街並みと繋がり、その先に山と空。背中には瀬戸内海。私が生まれ育ち、住まう神戸だ。
1995年1月17日。私は小学生だった。
前日に余震があって、あの本震だった。暗闇の中震え、夜が明けたら朝の空に火の粉が舞っていた、あのつめたい朝は死ぬまで忘れないだろう。被災中のことも、断片的にだが覚えている。
避難先の親戚の家で、支援物資でもらったノートへ幼いながらにテレビが流す別世界ぶりの憎しみ、生きることや明日への不安を書き殴った。それは、誰にも見せずに捨てた。
正直、私はあの日以前の神戸の記憶があまりない。
忘れてしまったのか、思い出せないのかも定かではない。明瞭に覚えているものはわずかで、写真や面影が残る場所に行き、目を凝らして見てもそれ以上のことはない。
それが寂しいのか、良いのかわからない。
どこかに置いてきてしまったそれらを、もう取りにはいけないことはわかる。
人は矛盾を抱えて生きるものだ。
神戸空港だって、私は反対派だったのに今じゃ無いなんて考えられない。
空港のデッキから眺めた神戸は、30年前のあの有様を感じさせないが、中途半端だなとも思う。
建物が変わり綺麗になって、道が広くなり、色々と便利が良くなった。だけどこの街は相変わらず坂道がきつくて、海と山が変わらずある。
観光として魅力があるか? 学ぶ場所としてよいか? 子どもを育てるのによいか? 働くのに魅力があるか? 老いても安心して暮らせる街か?
さて、これを読んだあなた。
そうあなたです。あなたの答えを聞かせてください。
あれから30年、私たちの愛する神戸はどこへ向かうのだろう。がんばろう、と立ち上がって歩んだ道は良きものだったのか。
30年経っても、私にはわからない。
ただあの震災を境に日本の防災意識は高まったのは確かだ。礎となったといえるだろう。
阪神大震災の後も数多の災害があり、悲しみや悔しさ、無念の上に積み上がるそれがより浸透し犠牲者が減るよう進化しますようにと、私はひそかに祈りに近い気持ちを抱いている。災害が起こらないのが一番だが……。
私たちが歩んだ道はよかったのか、また30年後に振り返れば分かるだろうか。
そのときに一夜にして何もかも変えた、あの震災を覚えて伝える人はどれくらいいるのだろう。
願わくば、愛する故郷・神戸があの寒い冬の日のことを忘れない、優しい都市であれば良いなと思う。
タイトル
神戸はどこへ向かうのか
投稿者
sn
年齢
39歳
1995年の居住地
神戸市須磨区
手記を書いた理由
記憶は自己に都合よく変わると聞いたことがある。
私は震災のことや当時の暮らしを断片的ではあるが比較的明確に覚えている、と思う。が、それが真実なのか確かめる術はあまりない。家族と私とでは覚えていることも違ったりする。
被災してから今まで何か気持ちを書き記すことはできたが、しなかった。1度だけやったが誰にも見せず捨てた。少しだけ後悔している。残しておけば確かめるよすがになっただろうに、と。
なのでこの機会に、せめていま感じたことや思いを書き記しておきたいと思った。
こんな被災者もいる、ということで……。