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我が家は阪神高速倒壊現場から北へ歩いて10分の場所でした。母親と娘たちで住むため二世帯住宅を新築し1年半の住居が全壊。家族は無事でした。何が起こったか分からず、夜が明けて町内の惨状が見えてきて(その後、町内の倒壊率が9割を越えた事を知りました)道路の西側、お向かいのお宅はまったくの瓦礫に。近くにお住まいだった娘さんが「ここに両親が埋まっています!」と声をあげ……。

ご近所から10人以上が集まったが、瓦礫の山にどう手をつけていいかわからず、瓦を端から取り除くが上から崩れてきてしまう。ある方が「瓦は上からはがさないと、落としていけば、すぐや」と言って、そうするとすぐに瓦がなくなり、崩れた屋根から老夫婦の姿が。奥様を戸板に(誰が、どこから持ってきたのか)乗せ、これもご近所の方で「芦屋病院へ運ぼう!」と(町内の病院もつぶれているのがその時には分かってきて、車庫も軒並み壊滅で車はつかえない)。今考えると相当遠い道のりだったと……。

お隣が全壊し我が家の方に屋根が倒れ込んでいて何度か息子さんが様子を見に来ていたのは分かっていました。救急車に連絡しても今は来れないと。そこで意を決して息子さんと二人で手をつける事に。ご両親は1階に寝ていらしたはずなので、まず瓦をどけて天井板をはがずと畳の山……耳をすますと何かたたく音がかすかに。重なった畳はなかなかはがせないが、どこからか近くに住む親類が鋸を持ってきた。畳はなかなか切れない。そこに見知らぬお兄ちゃんが「どうしたん」と。(後で分かったが大工さんか工務店関係で)畳の切り方を教わりその方も加わって取り組み小一時間経ってからだろうか小さく四角に切れて、ようやくおじいさんが出てこれた。おばあさんと手を握り合っていたが、だんだん冷たくなってきていたと。

おばあさん救出に切り口を広げるため鋸を握り続け、また1時間近くか……腕が痺れ手に力が入らくなる……と、おじいさんが「もう、ほとけさんになっとりやろなあ」と。そして諦めた。

出来たことはそれだけ。随分後で同じ北側の並びの学生さんが多いアパートで多くの犠牲があり、ご近所が救出していたと知る。わずか50メートル東のことだったのに。

この手記で伝えたいこと託したいことが何か、自分でもしかとは分からないが、「あの時」はたしかに自然に人が人を助けていて、われわれの言葉は助けを呼ぶためにあり、この手は人の上に被さる柱を持ち上げるためにあり、1人で持ち上げられない梁は柱は、2人なら、3人なら、10人なら持ち上げられた。託するとすれば、そういう思いだろうか。私自身、常には非力で人助けなど柄でなかったが人間には救助本能とでもいうものがあるのではとすら「あの日」から思っています。 あの時に流れたCMではないが「人を救うのは人だけ」との思いが……。

タイトル

「あの日」のある断章――託したい思い

投稿者

井上利丸

年齢

67歳

1995年の居住地

兵庫県芦屋市

手記を書いた理由

私はTV番組のプロデュサーで実はいま震災30年の手記の取材をしています。手記を書いた方にお話を聞く機会があり「伝え」「託す」との言葉を受け止めました。あの震災から30年……当時、励ますつもりで言われて心に刺さった言葉や、被災地の現状・状況が伝わらないもどかしさと悔しさ等いまでも毎日のように思い出すが……「託す」という意味で書くべきことがあるはずと考えてみました。そうすると震災当日の、自分でなんとかできた人助け、いやその真似事かもだが、その顛末を書いて託すべきだと思い綴りました。