阪神・淡路大震災からの「1.17」の中で、僕には忘れられないその日が、2回あります。
一つは、やはり震災が起きた1995年1月17日のこと。
1月生まれの僕は、その年に20歳になり、当時は1月15日だった「成人の日」を迎えました。
でも、郷里での成人式には出ずに、大学生生活を送っていた京都にいて、普通にアルバイトとテスト勉強をしていました。
確か、振替休日から3連休明けの火曜日の早朝。
真っ暗な中、違和感を感じて目を覚ましたところで、突然の大きな揺れに襲われました。
咄嗟に跳ね起きましたが、木造アパートがミシミシと音を立てるのが聞こえて、布団を被りながら思わず「やめてくれー!!」と叫んでいました。
その後、テレビから伝えられる阪神間の信じられないような光景は、未だに鮮明に覚えていますし、決して忘れられません。
そして、この日がきっかけで、防災に関わることを宿命のように感じ、「防災に貢献する仕事をしたい」と強く思い続け、土木系企業に就職して、防災に関わる業務に携わってきました。
もう一つは、2005年のことです。
その日、朝5時46分に妻と共に黙祷を捧げて、一日が始まりました。
震災からちょうど20年のこの日は、妻の親友が、花嫁となる結婚式の日。
披露宴会場では、「そういえば、今日は、震災があった日やね」という会話も聞こえました。
でも僕は、「新郎新婦の挙式の日取りとは関係ない話。たまたま、その日と重なっただけだから、素直な気持ちでお祝いしよう」と考えていました。
ですが、その僕の考えは、誤っていたのかもしれません。
御新郎は西宮市の方なのですが、その主賓の方がスピーチで、
「家内が、びっくりするくらいぎょーさんのご飯炊き始めて、何しとんや?!って聞いたら『おにぎり作って近隣の方々に配ってあげるんや!』と……それ聞いて、ウチの嫁はん、えらいな!と思いましたわ」とお話しされたり、その後でスピーチされた方々も、皆さん敢えて、1.17の震災の事に触れていくのです。
しかし不思議なのは、ホンマ不思議なまでに、その震災の話を、ポジティブに変換し、そして二人の門出を祝すに相応しいスピーチとして、見事に昇華させていくのです。
震災以来、阪神・淡路で暮らし続けて来た方々には、堪え難い、信じ難い程のご苦労があった筈でしょうが、それらを乗り越えて来られた方々のスピーチに、逞しさや心強さ、人生の深みを感じさせられた思いでした。
震災の当時20歳になったばかりだった僕は、50歳になります。
今は「生まれ変わる神戸のまち」の一角で、生き物や自然環境の尊さを伝える職場で働きながら、防災イベントにボランティアとして参加して、震災の経験を伝えるお手伝いをしています。
忘れない。伝えていく。
20歳だった僕の防災への思いは、今も変わりません。
そして、あんな素敵なスピーチが話せる立派な大人になりたい! と、今も思います。
タイトル
僕の中の、2つの「1.17」
投稿者
平田悟
年齢
49歳
1995年の居住地
京都府京都市
手記を書いた理由
阪神・淡路大震災は、その直前に20歳になった僕が「防災に関わる仕事をしたい」という志を決める契機になった大きな出来事でした。
その後の30年を書き連ねると1200字には収まらないのですが、でもこのKIITOさんの企画を知ってから「僕が、阪神・淡路大震災に心を寄せてきたこと、そして防災にかけてきた自分の思いを、この機会に何らかで残したい」と思いました。
そして、今は神戸で勤務しておりますので、阪神・淡路大震災を乗り越えて、復興に貢献されてきた多くの方々にも敬意を表したいとの気持ちも込めています。