1.17、阪神・淡路大震災の発生時、私は中学2年生でした。生徒会執行部に在籍しており、すぐさま募金活動を行うことを決定、校内からはその他の募金活動とはけた違いの支援が集まったことを記憶しています。
私が生まれ育った宮城県はプレートの沈み込みに伴う地震が周期的に起きている地域であり、前回の宮城県沖地震は私が生まれる2年ほど前に発生しました。長町-利府断層帯という活断層も近くに存在しており、物心ついたころから地震に関心がありました。地元民は地震が起きればおおよその震度を当てられるので、それが普通だと思っていました。
日本中どこもほどほどに地震があって、体感で震度が分かるだろうという無意識の思い込みが誤りであることを思い知らされたのが、阪神・淡路大震災でした。
人は自分が経験したり身近な人に話を聞いたりしないと、災害を自分事としてとらえるのが難しい。そう感じて教育実習では地震の発生メカニズムの単元で地震への心構えについても取り上げ、登下校中・部活中・一人で家にいるときなど、さまざまなシチュエーションで避難経路や家族との連絡手段などをシミュレートすることが重要だと話しました。
3.11、地元で東日本大震災の被災者となり、市民の気持ちの面での備えには限界があることを痛感しました。発災前はハード面での対策に関心がありましたが、発災後はソフト面での事後対応の必要性に思い至り、大学職員と大学院生の二足の草鞋を履きました。
研究の過程で触れた資料のうち、発災直後の街を役所職員が撮影した映像が印象に残っています。状況把握を目的として登庁時の撮影を指示されたそうで、がれきと炎、「なんなんだよ、これ……」というつぶやきは、いまだに思い出すと涙が出そうになります。
つらさをこらえて学ぶうち、阪神・淡路大震災でたくさんの研究がなされたこと、それらが活かしきれていなかったことに気づかされました。地元の古い記録もまたしかり。私たちの経験も、うまく伝達できていないのではないかと思うことがあります。
過去の痛みを味わった私たちができること、やるべきことは、記録の蓄積、経験の伝達、それらを継続することだと思います。一市民として、手記を書く機会を与えていただいたことに感謝し、教訓を発信し続けたいと思いを新たにしました。
タイトル
大地震を経て思うこと
投稿者
月葉也宵
年齢
44歳
1995年の居住地
宮城県仙台市
手記を書いた理由
3.11は津波に注意が集中し、内陸の土砂崩れの報道はわずかで、発災時に沿岸にいなかった自分は「被災者」を名乗ってはいけないような雰囲気でした。
でもあのときを生きていた人は、みんな「被災者」ではないかと思います。停電で情報が入らない私たちより、繰り返し津波映像を見ていた遠隔地の方のほうがトラウマは大きいかもしれません。渦中の私たちに見えなかったことが、離れた土地から少し冷静なまなざしで見えていた可能性もあります。
多くの視点からの多くの経験を蓄積することは、きっと意味のあることだと思います。いつか誰かが災害について「自分事」として考えるきっかけになれたらと考え、手記を書かせていただきました。