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このような文章を書くにあたって今更なのですが、私は自身を被災者だと認識したことはありません。確かに自宅は全壊しました。ライフラインも数日間寸断していました。けれども、震災は近くの街で起こった出来事であり、私のような状況の人間は被災者だなんていってはいけないとずっと思っています。おこがましい、といった言葉がぴったりくるでしょうか。それと同時にほんの少しの疎外感もあります。また、この疎外感という感情は当時の私があらゆる事象に持っていたものでもあります。

震災当時、私は神戸市灘区のある県立高校の3年生で、自宅は尼崎市にありました(いわゆる越境通学です)。1月16日に大学入試センター試験の自己採点を済ませ、17日からは高校へは自由登校となる予定。美術系公立芸大を第一志望に決めていた私は学科の勉強がやっと終了! やっと誰の視線を気にすることもなく、実技試験の準備だけに取りかかれる! と解放感にも似たさっぱりした気分でした。ちなみに、通学していた高校は地域で一番の進学校。早々にいわゆる受験勉強からドロップアウトし、美術系への進学を志望した私にとって決して居心地のいい場所ではありませんでした。いつも何かしらひねくれていました。とはいえ、1月17日からは心機一転。これまでの高校生活に区切りをつけられるに違いない、そんな自分勝手な考えを持っていました。

そんな中、突如起こった大地震。神戸の街を中心にすぐ近隣の街が酷いことになっているそうだ。自宅の周辺でいうと、近くを流れる武庫川を挟んで西側はとんでもない状況らしい。それに対して大阪方面は何不自由なく日常生活を送っているらしい。そんなに遠くないそれぞれの街の状況が異なり過ぎて、パニックになりつつ強い不公平感を感じたことを記憶しています。

その後2月にかけては、1時間以上も並んで代替バスに乗り、神戸市内にある画塾に通う日々でした。とにかく往復の所要時間の長さに疲れ切って、思考が停止してしまっていました。そして、2月末の高校の卒業式。何も覚えていません。

先述の通り、私は被災者だなんてとても言えません。けれど震災なんて起こらなければ、これまでのことや将来のこと、18歳なりにいろいろなことを考え、きっと誰かと語り合ったりしていたのだろうと想像します。人格を形成する中でかけがえのない時間なのに、私はそれを通過せずに生きている。やるべき課題が未だにできていない。後ろめたさのようなものと宙ぶらりんな気持ちとがいつも心のどこかにあります。

こんな気持ちを整理するために、まずは当時の状況を言葉にしたいと今回このテキストを記しました。いつかこの先、このテキストを客観的に読めるようになる頃には、私は私をもっと肯定できるようになるのでしょうか? このテキストが未来の私の、あるいは誰かの一助になれば、とても嬉しいことです。

タイトル

疎外感のゆくえ

投稿者

山内裕美

年齢

48歳

1995年の居住地

兵庫県尼崎市

手記を書いた理由

ここ数年、出産を経験し子どもを育て始めたこと、特にコロナ禍以降の急激な社会通念の変容、また自身が生死に関わるような病気を患ったことにより、これまでの人生観が大きく変化しました。これまでの人生は先のことよりも目の前の出来事に全力を注ぐことしか考えられなかったのですが、人はいつか死ぬという、当たり前のことを実感したことで、後世に一個人の考えや記憶を残すという行為に興味が出てきて今回手記を記すことにしました。