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阪神大震災のあった当時、私は中学2年生でした。幸いなことに、自宅の倒壊は免れ、ガスの復旧は3か月程度かかったものの水道や電気は1週間前後で復旧したため比較的恵まれた方だったのではないかと思います。

しんどくなったのは半年から1年経過した後になります。周囲の頑張っていた方が体調不良になったり急死されたり、髪の毛に急に白髪が目立つようになる方が増えていったことです。私の場合、母親が腰痛を常態化していると言い出したことに加えて、もともと親族との仲が悪かったこともあり精神的ストレスを抱え込んでいくようになりました。

「こんな飯炊きババアみたいな人生は嫌だ!」などと叫んでは、日常的に喫煙と飲酒に走るようになり趣味の音楽に没頭しては散財するようになり、私には勉強して難関大学に行けとか音楽をやれと強要するようになります。食事がない日もよくあり、今の時代でいえば育児放棄やネグレクトに該当していたのではないかと思います。

そんな日が3年近く続いたある日、高校から帰宅すると母親は布団の上で冷たくなっていました。悲しみもありましたが、なぜかホッとしたような所もあり当時を振り返ると自分はなんだったのかと感じています。

その後、父親が単身赴任で一人暮らしをせざるを得ない状況となりました。非行に走る度胸でもあればよかったのですが特にそんなわけでもなく、苦学の末九州の大学に進学することになりました。どんな頭の良い人間でも蹴散らして生きて行ってやる! と思って生きていたのですが、九州の比較的濃い人間関係の社会に入ったことで、そんな考えがなくなり、あとは他人さんの家にお邪魔して食事が出てくると「食事って作ってもらえるものだったんだな」などと良くわからない形で自分の心境の変化が訪れたものです。

まとまりのない文章になりましたが、震災の後は最低でも3年くらいは被災地の人々の心に寄り添うような仕組みづくりができ、私のような経験をする人がいなくなるように願いたいです。

タイトル

震災後の人の変化について

投稿者

剣道好き40代

年齢

43歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

震災から30年を迎えて、その後他界した母親と同じ年齢になったことや自分も親になったこと、未だに震災や震災後の辛さを思い出すことがあり、投稿させていただくことにしました。