「あ、地震だ」と思った瞬間ベッドの上で左右に激しく揺さぶられた。避難訓練で学んだ地震の時には机の下に隠れろなんて絶対無理だ、と思いながら布団を頭にかぶり、早くおさまれ早くおさまれ、と祈った。揺れがおさまり電気をつけるがいくら紐をひいてもつかない。部屋を出ようとするも廊下の本棚が倒れて扉が開かない。なんとか外に出たものの電気がつかず何が起こったかわからない。ラジオ好きの母のおかげで乾電池の入っていたラジオから流れるニュースでようやく状況を知った。
外が明るくなり、弟はちょっとみてくる、と開かなくなった玄関横の窓から外に飛び出し、自転車で近所の様子を見に行った。私と母は台所の床に散らばった割れた食器を片づけようかと動き出す。新しい機械を買ったばかりの父は大阪の工場も同じ状況だろうとなすすべなく呆然としていた。3時間ぐらいたった頃だろうか、電気がつき、テレビが映るようになった。そこに映ったのは倒れた阪神高速。そしてビルが真横に倒れた三宮の街並み。高校3年生だった私は前日学校でセンター試験の自己採点を終え、芳しくなかった結果に落ち込みながらも友人と三宮の町をぶらぶらし、また明日と別れたのだ。昨日まで普通にあった街並みが変わり果てている。それと対照的に大阪は普通だった。昨日と同じ日常が続いていた。工場の無事を確信した父は元気を取り戻し、井戸のある親族の家までご近所の分まで車で水をもらいに行ってくれた。その夜は家族四人で寝た。おさまらない余震にビクビクしながら一晩を過ごした。
しばらくして大学受験の書類を受け取りに高校に行くことになった。西宮以西は電車が不通だったので西宮北口から代替バスで向かった。神戸に近づくにつれ大きくなる被害に愕然とした。1階がつぶれ、2階が歩道にせりだした家やアパートを何軒も見た。自分の被災はそれほどではなかったと思った。
私の住んでいた所は被災後3日目ぐらいに水が出て、その後ガスも使えるようになったが、ガスがいつ使えるようになったか実は覚えていない。しばらくの間水で食器を洗っていたことは覚えているが、いつからお風呂に入れるようになったか記憶にない。当時は忘れないと思っていたことを忘れていることに気付いた時にはあんなに大変なことも忘れてしまうのだとショックだった。
今年2つのドラマで阪神大震災が描かれた。朝ドラ『おむすび』と『不適切にもほどがある』だ。私はドラマで震災のことが描かれることをありがたいと思っている。震災のことを忘れずにいてくれているからだ。覚えていてくれる人がいること、そのことにとても救われる気持ちになる。そう感じるのは私の被害がそれほど大きくなかったからなのかもしれないが。
この30年間に大きな自然災害がいくつも起こった。自分の被災したことですら記憶が薄らいでいくが、他の地域の災害についてもできるかぎり覚えていたいと思う。
タイトル
30年前、そして今思うこと
投稿者
岡野亜紀子
年齢
48歳
1995年の居住地
兵庫県尼崎市
手記を書いた理由
このような機会があると知り、当時のこと、今感じていることを書き残しておこうと思ったから