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まさか……

自分が大地震の被災者になるとは、思ってもなかった。ゴーッという地鳴りを眠りの中で聞いた。直後激しい揺れに体を突き上げられ、四つん這いになって私は叫んだ。「こんなの初めて!」揺れの中で鬼の顔が見た、と言ったら信じてもらえるだろうか。

揺れが収まり、2階の娘の部屋に駆け上がった。電気が点かない。焦る。真っ暗な中「大丈夫?」と声を掛けると、「大丈夫。お皿が飛んでたぁ」と以外に呑気な声が返って来た。

外に出てみる。ザワリとした不気味な静けさ……。電柱は傾き、街灯の電球な散乱、道はうねり、ガス臭い。国道に出ると、車のライトが流れ、歩いてきた男性に「駅の向こうでは壊れた家の中から『助けてくれ』という声がしとる」と告げられ、絶句する他なかった。

すぐ側の会館に人が集まり始めていた。そこに香ばしい匂いが漂う。男性が焼きあがったばかりの食パンを何本も抱えて、一山ずつちぎり、子どもたちに配っていく。チイちゃんのお父さんだ。切り口から上がった湯気の光景を覚えている。

外が明るくなり、人が増えていく。姑が持ち出していたラジオのニュースを固唾を呑んで聞いた。住宅、高速道路が倒壊、火事が発生……、どうやら尋常ではない事態に私たちは遭遇しているらしい。まさか……、神戸で地震なんて……

震災翌日に、尼崎の実家へ避難した。歩く覚悟だったが、偶然、職場の同僚を捜しに来ていた人の車に乗せてもらうことができた。西宮~魚崎間の裏道を知り尽くしているという男性は、大渋滞の国道を横目に、細い路地を走り抜けた。西宮まで来た時「信号が点いている。電気が来ている、ということや」と言われ、「ああ、助かった」と深い息を吐いた。安堵という言葉の意味をこれほど実感したことはなかった。

この30年を「災間」と呼ぶならば、「投稿」が大きな意味を持つ。思いを文章にまとめ、新聞に投稿する。震災後100日で帰って行く自衛隊のニュースを見た時、お礼が言いたい、その一心で原稿用紙に向かった。初めて活字になった自分の文章を見た時の感激……。作文が大の苦手だった私が、400字、原稿用紙1枚の世界に導かれていった。

震災後、苦しい時もあった。家族が病気で倒れる。娘は不登校。我が家の再建中に問題が押し寄せた。死んでしまいたい、とさえ思ったこともある。思いを言葉で綴る、それが自分の心を整理することにもつながった。震災に遭わなければ……と思うこともある。でも、多くの人が、あの震災で無念の内に亡くなった。生かされたことに感謝し、筆の語り部の一人でありたい、とも思う。

タイトル

まさか

投稿者

小山るみ

年齢

72歳

1995年の居住地

神戸市東灘区

手記を書いた理由

時とともに薄れていく記憶を忘れないために。生き残った者の務めだと思う。