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あぁ神戸が燃えている、私の知っている神戸はもうない。あんなにも1日中テレビの前に座ったことはない。それまでもそれからも。あぁ喪失感というのはこういうことをいうのか、1週間前に「そごう」で買い物をしたというのに、あぁ明日の命はわからないものなのだ。しみじみとそう感じた。

予定していた1月のフリーマーケットを急遽「復興支援バザー」に切り替えて物資の提供を呼び掛けると、我が家の6畳の和室には寄贈品が積み上げられた。売上10万円を被災者支援団体(CODE)に届けることができた。

兵庫区の友人と連絡がつかない。JRが動き出してすぐ足を運ぶと、2階建ての家の屋根が地面にくっついていた。近くの小学校に避難し、知人宅に身を寄せたという友人。我が家には幸い独立した部屋があったので、2月から年内を家族として共に暮らした。

この時、映像では伝わらないことがあるのだと気づかされた。避難所に足を踏み入れた瞬間、あっと思わず息を飲んだ。何とも形容のしようがない独特のにおい。ここで何日も暮らすことは、それだけで気が滅入るに違いない。

以後、自分のできることに精一杯取り組んだ。

① 被災地では風呂に困っていた。明石の福祉センターには障害者、高齢者用の温水プールがあるではないか。「すぐに解放して欲しい」と交渉したら、「温水プールはプールであって、風呂ではない」と断られた。

② ガレキが散乱していた被災地では、「すぐに自転車がパンクするが、材料がなくて修理できない」と聞いた。自宅近くのバイク屋さんに相談したら、材料を提供してくれた。いつも聞いていた朝日放送ラジオに投稿したら放送してくれて、随分と遠くから修理道具を持参して駆けつけてくれた方がいて、一緒に被災地に入った。

③ 避難所では弁当ではなく、包丁とまな板、お鍋にコンロが欲しいという。自分で調理したいとのこと。明石で呼び掛けたら、大きな段ボール箱がいっぱいになるほど集まって、現地のボランティア団体に渡すことができた。

④ 一番驚いたのは「アンパン事件」。炊き出しで出来上がった豚汁を近くの民家に届けると、家財がミキサーで混ぜられたような家の方に「悪いけど、これ持って帰って」とアンパンを渡された。「冷たいおにぎりと菓子パンはもういらんねん」そう言われた。被災地のニーズは刻々と変わる、それを痛感した瞬間だった。
 
自分一人ができることなどたかがしれている。しかし誰でも「自分にもできること」がある。そして旗を立てれば、そこに集まってくれる人もいる。我が家の近隣では、屋根がブルーシートの家も多かったが「神戸は大変よねぇ。何かしたいけど、何をしていいか分からない」そんな声を少なからず聞いた。人への信頼を感じたと同時に、旗を立てる人の少なさも感じることになった震災であった。

タイトル

旗を立てるということ

投稿者

田坂美代子

年齢

75歳

1995年の居住地

兵庫県明石市

手記を書いた理由

来年はあの震災から30年、年が明けてそう思いました。被災地の女たちの、そして「ウィメンズネット・こうべ」と代表(正井禮子)の歩みを、今遺さなければ次はない、そう思って『女たちが語る阪神・淡路大震災1995-2024』を編集、出版しました。同時に、自分自身の震災体験も、文字にして遺してもいいのではないかと気がつきました。
ささやかではあっても懸命に取り組む中で気が付いたことがあり、自分の生きるモットー「自分にできることを精一杯」が生まれたのですから。