2019/4/5
イベントレポート
去る2019年3月5日(火)、「+クリエイティブ公開リサーチゼミVol.2「人口減少時代豊かな暮らしを神戸でデザインする」」の第2回目が開催されました。第2回目では、大阪大学COデザインセンター准教授の山崎吾郎さん(文化人類学)をゲストに迎え、「「課題」にどう近づくか? リサーチをとおした参加と距離化」というテーマでお話しいただきました。山崎さんの専攻である文化人類学の知見や手法と、COデザインセンターでの活動の事例とを結びつけながら、ある現場で課題を取り出す、あるいは提示することじたいが、どれだけ重要な「課題」であるのかを、印象づける内容となりました。
第1回目では、秋田大介さん(神戸市住宅都市局)をゲストに迎え、グローバル、日本国内、そして自治体レベルなど、いくつかの地理的、制度的な枠組みから、各地の人口の動向に注目し、そこから見える「人口減少」の様子、さらに「人口減少」と関連して注目される現象や問題を取り上げ、それに対して、新たな社会的、経済的な仕組みを構想することの重要性が提示されました。
第1回目のレポートは、こちらをご覧ください。
一方、第2回目では、文化人類学の知見と手法、その成果を通じて、「人口減少」していると名指される地域や、その現場からの問いかけが見えてきたのではないでしょうか。「「課題」とはいったい何なのか? なぜ、いま、ここに、われわれに対して、「人口減少」に関する「課題」があると指し示されるのだろうか」と。
まずは、「文化人類学」の概要と、現代での位置づけを確認してみます。
「文化人類学」の1つの側面を挙げるならば、異邦、遠方、未知、未開の地へと趣き、調査や参与観察を通じて、現地の文化や社会がどう成り立っているのかを解き明かす、というものでしょう。「こちら」に対して「あちら」を設定し、比較することで、私たちの世界のありかたや様相を示す、そのような営為、とまとめることも可能かもしれません。
一方で、「あちら」の社会のあり方を解き明かすことを通じて「こちら」を捉え直し、さらに深く再考してみる、あるいは、社会の別のありようや、「こちら」/「あちら」を問わず、私たち自身の世界の認識や、人間自体の認識を変える、そうした側面も、文化人類学は持っているようです。例えば、経済的な枠組みが、大規模かつ世界規模になる中、街中がどこも代わり映えしない、閉塞感を感じる状況に対しても、異なる価値観、可能性を模索するものでもある、ということです。
したがって、前者のイメージに反して、身近で日常的なものが、文化人類学の対象となることも多く見られます。山崎さん自身、「医療」というわたしたちに身近なものを研究のテーマとし、臓器移植という新たな技術の登場によって現れた「脳死」という新たな人間の状態、あるいは「贈与」、「情念」という概念について、念入りな考察を行ってきました。
また、山崎さんの所属するCOデザインセンターもまた、単に研究、教育の活動を行うだけの機関でありません。分野を横断し、社会と関わり、多くの組織、コミュニティと連携し、協働して、社会課題の解決を目指すことを、主要かつ重要なプログラムとして展開しています。私たちが暮らす日常、あるいは属するコミュニティ、地域……等々、社会においては、多くの人がそこに関わり、活動を行っています。1人だけで、1つだけの分野をかかげて、そこに介入し、着地点を見つけるのは、現代では難しいことです。
それは、そこに関わっている多くの人々の活動、そこに見られる様々な場面を、数多の分野が協働して観察し、対話しなければ、「社会」で起こっている問題、課題への介入などはままならない、ということでもあります。高尚な司祭や強大な指導者、巷に流布している「スローガン」に頼って一刀両断で決着をつけるやり方は遥か昔に過ぎ去り、違う分野どうしで協働し、知見を融通しあって初めて、新しい成果が出てくるのが、現代の状況であるわけです。「社会課題」という長期的かつ、広大な未知の世界に分け入るに際しても、文化人類学の知見と方法もまた、不可欠なものとなっています。
山崎さんが挙げた、京都市の京北の空き家の事例、あるいは交通の事例は、文化人類学の特徴を活かした活躍を印象づけるものであったことでしょう。「人口減少」に関連してよく登場する「空き家」ですが、それは広い枠組みや統計から見出された、マクロな「問題」としての「空き家」であったり、広くに流布している話題である「人口減少」ありきのキーワードとしての「空き家」であったりします。実際の、フィールド、地域、現場、背景を持たず、問題として漂う「空き家」。そこには現場でのミクロな状況が勘案されることはなく、「空き家」が置かれている状況、そこへの人の関わり、地域での扱われ方など、ミクロに作用している関係性の網目が見えることはありません。問題として扱えない、きわめて曖昧模糊とした「空き家」なのです。
それに対して、調査、フィールドワーク、参与観察といった、文化人類学的な営為をもってはじめて、「空き家」を取り巻いている、ミクロな状況や関係性が明るみに出ます。その地域での「空き家」の本当の実態、「空き家」に関わる住民の意識、地域での住民同士の関係性や、地域でのルールにおける「空き家」の位置づけ……等々。マクロな意識のみから、「空き家」を借りたい、活用したい、マーケットに出せるようにしたいという「課題」では、結局、「空き家」に近づくことはできないということです。
文化人類学的な方法で、「空き家」のありようを丹念に調査した結果、住民が関わらないと動かないという、シンプルではあるが、とても重要な要因に行くつくことができたのだと言えます。第1回目では、「空き家」をめぐって、「所有」についての新たな考え方を模索するという提案が出されました。一方、今回の事例の紹介を通じて、「所有」とは、単純に誰かが何かを持つ、ということではなくて、地域、場所、住民、そこでのコミュニティなど、様々なものが張り巡らされた中で「所有」が成立していることが明るみに出たと言えます。このミクロから導き出された「所有」は、特定の場所だけに限定されるものではなく、広い枠組みで新たな「所有」のありかたを構想しようとするときには、現場からの避けては通れない「課題」となることでしょう。
社会課題に関する多くのフィールドワークの成果は同時に、課題とはなにか、それは適切なものかという問いかけでもあります。「果たしてそれは、その現場に本当に必要なものなのか、あるいは、ここに向けている視点は適切なものなのか」と。ときには、現場から距離を取り、マクロな視点とミクロな視点とを行き来することも不可欠となります。
社会課題へと近づく文化人類学は常に、そのフィールドにある複雑さと対峙しています。「課題」から調査を行えば、「課題」の対象となるものが複雑な関係に取り込まれていることを目の当たりにすることになりますし、解決を求めるステークホルダー(利害関係者)が多くなれば、「課題」や「問題意識」が一致していない実態や、利害関係が複雑化している実態が見えてきます。また、ある解決策が別の問題を起こしたり、不安要素をかえって顕在化させたり、などと、あちらを立てればこちらが立たずということも起こります。
「課題」に対峙するとき、「課題」の現場へ介入するときはつねに、継続的で綿密な調査と、問題が果たして問題なのか問い直しを行うこと、また、それによって「課題」じたいを検証し、「課題」の周囲の関係性、「課題」をめぐって発生している摩擦を明らかにするよう、求められているのです。
これから、どんな地域、社会、世界を作っていくことができるのか、あるいは、地域や近隣で何をしていけばよいのか、閉塞した状況や、行き詰まっているように感じられる状況から、新たに一歩を踏み出し、別の有意義な何かを生み出すヒントを与える重要な役割を、文化人類学が担っているのも確かなことのようです。
次回、第3回目は、神奈川大学の曽我部昌史さん(建築)をゲストに招いて、「暮らしのたのしみかたをつくるには? 人口減少期の建築とまちのデザイン」というテーマでお話をいただきます。
+クリエイティブ公開リサーチゼミ Vol.2 「人口減少時代の豊かな暮らしを神戸でデザインする」の概要はこちら。