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2015/3/5

イベントレポート

KIITOアーティスト・イン・レジデンス2014 濱口竜介 映画『ハッピーアワー』編集ラッシュ公開上映 レポート

2015年2月21日(土)

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2013年9月から5ヶ月間、濱口竜介氏を招聘し「カメラの前で演じること」をテーマに「濱口竜介 即興演技ワークショップ in Kobe」を行いました。2014年2月、ワークショップの成果発表として、『ハッピーアワー』の前身となる長編映画用脚本の公開「本読み」と、ワークショップ参加者が脚本の中の役柄を演じながら、演者同士でインタビューし合う「キャラクター・インタビュー」の映像展示を開催しました。(レポート)

その後2014年5月より、濱口氏はワークショップ参加者全員をキャスティングし、長編映画の製作に入りました。その間KIITOは、制作拠点やロケ地の提供、リサーチ等において協力を行いました。

このような過程を経て、濱口竜介監督作品『ハッピーアワー』の「編集ラッシュ公開上映」の日を迎えました。編集ラッシュとは、撮影された映像素材を、脚本に添う形で編集したもので、未整音・未色調整・クレジットなしの状態の製作途中のものです。通常は一般公開されないものですが、今回、ひと繋がりの映像として初めて公開する機会となりました。

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この日の5時間半近くに渡る上映内容は、会場にお越しくださった方のみが目撃しました。
本レポートでは、上映後のアフタートークの内容をお届けします。製作プロセスの只中であるため、何かを結論づけたり、答えを出すためのトークではなく、何かこれまでに観たことがないものを目撃したという会場の空気のなか、意見交換を行うことで、今後の編集方針を決めていくヒントともなりました。

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濱口 まずは、長時間観てくださった観客みなさんに感謝します。そして出演者一人ひとりに対して、この一連の製作によく付き合ってくれた、と讃えたいと思います。

港 他にはない経験をさせていただいたと感じています。まず一つには、編集の途中段階であるラッシュを観るという経験。画家が描きかけの絵を見せるようなものですから…。しかも映画として、ここまでの長さを上映することはめったにない。
もう一つには、(トーク登壇のためについ先程)三宮に着いて、KIITOまで歩いてきて、神戸が舞台の『ハッピーアワー』を観る、この不思議な感覚。演技が成功している/失敗している、というのとは別種の、演技が醸しだすリアリティとも言えるものが存在しています。

芹沢 映画内に登場する朗読会のシーンは、ここKIITOで実際にイベントとして実施しました。それにぼくも観客として参加したので、ますます現実と非現実の境目がわからなくなってきます。

港 そういうリアリティもありますよね。映画を観ている時、朗読会の観客と同じ位置に座ることになるので、自分も参加しているような感覚で、朗読会が終わったあと自然と拍手したくなりました。
濱口監督の前作である「東北三部作」では、人間がカメラに正対して話す場面があって、カメラに向かって話す時の独特の距離感や、声振りが撮られていましたね。それがハッピーアワーでも見られた。観客に正面から語りかけてくる感覚を持ちます。そのときに話している“相手”が俳優であることを忘れる。これ…映画ですよね?(笑)
あと、最初にこのアフタートークのオファーをもらった時に、濱口さんといえばドキュメンタリー(東北三部作)のイメージを持っていたので、今回ワークショップを経た実験映画的な作品を予想していましたが、ストレートに物語映画だった。変な感想ですかね…。(笑)

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芹沢 KIITOで「即興演技ワークショップ」を実施する中で、『ハッピーアワー』の脚本が生まれて、初めて読んだのが1年前でした。その時からシナリオ自体の大枠はそのままだけれど、内容は変わっていますね。
昨年KIITOで開催した、脚本の公開本読みを見ていたのですが、その時は、あえて台詞を抑揚なく読むようにしていたよね。意識的にやっていたと思うけど。当時は、これを映像化するとどのようなものに仕上がるのか、なかなかイメージすることができなかった。ぼくも、「東北三部作」の印象が強かったからね。ところがまったく違うものに仕上がった。この演技のリアリティはなんなんだろう。日常の言葉とかしぐさなんだけど、出演者みなさんが演技をされているという印象を受けなかった。なにか説得力がある。

港 もちろん演技なんだけども、他の幾多の、日常における人間関係を描いた映画とはまた違う。私はプロセスを知らないのですが、一年という短い製作期間でよくここまで出演者同士の密な関係が作れたなと。どうやったんですか。

濱口 出演者は、2013年9月から始めた「即興演技ワークショップ」の半年間があったから、演じることが出来たと言っていました。ワークショップでは、演技の指導はせずに「インタビュー」をしていました。これは、出演者同士がお互いのことを好きになっていく過程、お互いを魅力的な人間と感じる過程だったように思います。これがベースとなりました。
そして2014年2月に公開本読みを行い、それから脚本を修正して、同年5月から撮影を始め、そこで初めて演技をやりはじめたんです。つまり、普段の彼らではない姿でカメラの前に立ち始めました。
撮影の直前に本読みをして、そこでは抑揚を欠いた形で読み、最低限の台詞を覚えてもらいました。覚えてもまだ本読みをし続けて、次に台詞を使ってコミュニケーションしてみよう、というのをやっていました。台詞があるからといって、それに気持ちを合わせるのではなく、台詞を使ってキャッチボールする。こんなにも演技をしたことがない―する気がない人たちが、こんなにも見事にカメラの前で「居る」ことがあるのか、と私自身驚きながらやっていました。

港 カメラが消えてしまった時にその人の内面が写し取られる、という古典的な映画は存在しますが、あえてカメラで撮られていることを意識する/意識しないという段階はありましたか。

濱口 カメラは基本的には消せないんだという大前提に立っていました。無いフリはこちらはしないし、意識から消してください、と出演者に要求することもしませんでした。
また、この役はこういうキャラクターで、実はこういうことを思っている、ということを出演者に話したことはないように思います。ただ台詞を覚えているだけなんだ、それを使ってやってみよう、という意識でした。ただ、映画にしていない「サブテキスト」を書いて渡したことはありましたね。例えばこういうやりとりがあった2人(キャラクター)かもしれない、というパラレルワールド的なストーリーを書いたものです。

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芹沢 以前の本読み+映像展示でも強く感じたけれど、演技指導をするのではなく、出演者の方に台詞をひたすら、繰り返し読んでもらうことで作り上げていくことがかえって、嘘と本当が入り交じるような奇妙な感覚にさせられるね。

港 ヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』では、映画を作っていく過程を映画の中に入れ子構造にする、という試みがされていましたね。あれを思い出しました。
予算が足りなくて映画を撮影できないという話で、撮影隊と俳優が一つのホテルに泊まっているんですが、予算がないからカメラがなかなか回せなくて、しかもプロデューサーにお金を持ち逃げされてしまう、というストーリー。そのなかで監督役が「映画っていうのは、俳優とかストーリーとか雄大な儀式とか、そういったもので出来てはいない、人間と人間の関係性のみで作れるんだ」という台詞を言っていました。
『ハッピーアワー』の中でも、ドラマが連続することで、映画的な感情のクレッシェンドが次々起きていくのですが、それとは別の軸として、人間と人間の関係が出来ていく過程を見ているのだ、という気にさせられます。映画としてはたまたま浮気であるとか、離婚であるとか、男女の関係に置き換えられているんだけれども、出演者たちの関係で成り立っている。いい映画というのは、二つのストーリーがあると思う。それを感じました。

芹沢 カメラは暴力的、といつも濱口さんは言うよね。そのカメラに向かわせる、ということをさせる。それがかえって違う次元を生んでいる。

港 いわゆるカメラワークというよりも、あくまで人間が中心にあるのが見事ですね。あと、歩くシーンが多いよね。神戸の地形がそうさせるのか…こだわりを感じました。桜子と大紀(桜子の息子)が歩くシーンで、階段を降りる時に大紀が自転車を持って降りるところ、横断歩道を渡る前に二人が階段とスロープに分かれるところ、いいね。親子の距離が離れてはもう一度接することで、微妙な心の開きを表現している。映画的な魔術ですよ。
脚本の巧みさも手伝っている。脚本上のストーリーが、前段階でKIITOで行われたワークショップや朗読会のストーリー(内容)とパラレルなのではないか、それが効果的な画作りに働いているのではないか、と想像させられます。また、朗読会の後の打ち上げのシーンで、「純について話すことを通じて自分のことを話しているんだ」、という主旨の台詞があったと思うけど、誰かに役替りしてもらって話すというのは日常生活でもあるかもしれない。

濱口 出演者はもちろん、素のままでカメラの前に立っているわけではありません。テキストの存在というのがあるので、その人自身であれば絶対に口にしないことも含まれているんです。それを演じてもらって、テキストとその人自身が掛け合わされた時にはじめて、こんなにいいテキストだったんだ、と思いました。

芹沢 そういう意味でも、監督と出演者の関係性が普通の映画とはぜんぜん違うよね。出演者が素のまま、そのままでカメラの前に居るように見えてしまう、そういう言葉ってどうして生まれてくるんだろう。与えられた役割を演技する、というやり方ではこんな風にはならない。

濱口 2014年1月に脚本決めをしました。まず、ワークショップ参加者に、映画には全員出られるということを確認して、それを前提に脚本を書きながら、「この人の身体はこういうことはしない」「こういうことは言わない」と考えた。それでも、どうにかして面白い映画を作りたいと思う中で、「無理かもしれないけれど、これだったらなんとか」という部分が残っていきました。

港 言葉だけではなく、話し方、声の質が大切にされている。

濱口 「本読み」をしていると、声自体に“すっ”とした状態、漂白された状態がまずあって、それに“ひだひだ”がついてくる瞬間があるんです。それを出演者みんなが持ててきた時に、「今の状態であれば良いシーンが撮れるんじゃないか」という気になってきます。
『ハッピーアワー』は、そんなに大技をくり出していない、コツコツ積み重ねているシンプルな映画です。基本的にはこの人達を撮ってさえいれば映画になるはずだ、という確信を持って撮影していました。あのワークショップの時間の中で確信を持たせてもらいました。

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観客みなさんに、濱口さんからキャストのみなさんをご紹介する場面も。本当にお疲れ様でした。

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