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2026/2/24

イベントレポート

[REPORT]〈災間スタディーズ:震災30年目の“分有”をさぐる〉#2 ディスカッション『記録を集め、受け渡す』後編

1995117日、阪神・淡路大震災。あの日から30年という月日が流れようとしています。膨大な震災資料はいかにして集められ、守られてきたのか。そして、それらは今、誰のものとして存在しているのか。

災厄の経験を分有する表現の可能性をさぐるリサーチプロジェクト「災間スタディーズ:震災30年目の“分有”をさぐる」では、9月28日(土)に、震災資料収集の最前線を歩み続けてきた佐々木和子さんを迎え、第2ディスカッション『記録を集め、受け渡す』を開催しました。

本レポートは、トークイベントの後半ディスカッションの記録です。後半では、参加者からの質問を軸に、災間文化研究会の高森順子さん、宮本匠さん、佐藤李青さんを交え、前半の佐々木さんのお話を深めていきました。1時間半のディスカッションの中からこれからの災害アーカイブを考えるヒントが浮かび上がってきました。

 

目次

・震災資料収集の体制構築—嘱託職員による活動と調査マニュアルの作成
・資料の所在確認と保存の実際—寄贈・預かりの判断と保存環境の整備
・アーカイブの課題と運用
・組織を越えた技術と経験の継承
・記録の「分有」というあり方

 

震災資料収集の体制構築
—— 嘱託職員による活動と調査マニュアルの作成

 

佐藤李青(以下佐藤):そろそろ後半のディスカッションをはじめていきたいと思います。後半は、会場から頂いた質問を見ながら佐々木さんと我々でお話をしていこうと思います。今日は佐々木さんにいくつか資料をもってきていただきましたので回覧します。
今日のお話でさらっと話されていましたが、兵庫県は阪神大震災に関する資料収集事業の嘱託職員として3人で活動を始められて、その後の大規模震災資料所在調査では、緊急雇用で集められた100人を半年ずつ4期に分けて雇用し、資料収集の指導を行ったとお話されていました。記録を集めたことのない人たちに、なぜ記録をとることが大事なのか何をとってくるべきかが分かるようにマニュアルを作ったり、どのように資料収集がおこなわれたのかが回覧している報告書にまとめられています。

佐々木和子(以下佐々木):マニュアルは、兵庫県がおこなった大規模調査事業の1年目と2年目につくりました。雇用交付金事業で雇用された調査員の方々は、社会経験を積んでこられた中高年の方たち。「企業でそういうことはあり得へん」となんども呼び出されておしかりをうけたこともありました。そういった経緯を経ての最後の頃のマニュアルです。「悪かったら直したらいい」と考え、修正を重ね、3人でつくりました。工夫した点として、初めにどこに集めに行くのか。ボランティア団体、会社、学校のほかに一般家庭も範囲に含めました。避難所や仮設住宅に行く人が被災者と言われがちですが、地域で被災したとしても全員が避難所に行くわけではないし、家にいてもいろんな経験をしているので一般の人たちの資料をどうやって集めるのかということを考えました。小学校区に分け、範囲を決めて募集チラシを撒きました。私たちはやりながら直すということをしていました。何を集めるかというよりもどこから集めるかということに関して何度も話し合いました。まず、リストを作って、電話帳を見ながら電話をかけていきました。資料調査では、調査先番号、出所番号をつけています。やってみてわかったのは一度番号をつければそのまま変えずに使える。1番が×であれば番号をそのままにして欠番でいい。どのレベルでダメだったかが分かればよい。アポイントが取れたか取れなかったのか、訪問してみたけれどダメだったのか。理想的なのは資料すべて個表で番号がついていること。また、写真もついているというもの。表になっていて番号がついているのでデジタルアーカイブをするには良かったなと後になって分かりました。

佐藤:回覧した冊子は、人と防災未来センターでデジタル化されているとお話しましたが、実はこれをデジタル化したのは高森さんです。

高森順子(以下高森):先輩というような気持ちでお話を聞かせていただきました。私自身は20114月、東北の震災直後に人と防災未来センターの震災資料専門員として3年間働いていました。その当時は大きな災害が起きた直後でしたので、どういうふうに調査票をつくったのか入ったばかりの私は分かりませんでした。「震災・まちのアーカイブ」の前身となる震災活動記録室には、私のライフワークでもあり、伯父(阪神大震災を記録しつづける会の発起人)が立ち上げた阪神大震災を記録しつづける会も入っていたと聞いています。人と防災未来センターでは、収集された経緯をセンターで継承するような場はなかったんです。神戸大学の有志が毎年開催している研究会に参加した時、そこで資料を見て色々な紆余曲折があった経緯が分かりました。この資料は東日本大震災直後の東北の各所で困っている人たちに送っていましたが、数が足りないのでPDF化を会議で提案しました。館の活動とは遠い距離にいると思いがちなんですけど、佐々木さんたちがかつてこうだったと教えてくれたことが経緯となってできたことだったので、お話を聞きながら思い出していました。

 


写真:船山哲郎

 

佐藤:このような実践が行われた後に、組織内では人が変わっていくため、手法は継承があまりされておらず、研究会があることで検証されているということでしょうか。

高森:すごく微妙なせめぎ合いがあることは分かるが、誰と誰なのか、それは組織なのかというのはわからない中で、研究会の場を作っていただけていた。私としてはそういう認識でした。

佐々木:東日本大震災(以下東日本)の後に、震災文庫へ被災地の図書館の方たちから図書館としてどういう整理をすべきかと相談をいただきました。神戸大学では2012年頃から、東日本被災地の県立、大学図書館を中心に本以外の資料の扱い方を学ぶために震災文庫の資料整理の仕方や人と防災未来センターへの案内を続ける活動として、被災地図書館との意見交換会を行っています。資料整理の仕方が図書館としては非常に実務的な勉強になる。本以外のものをどう整理したら良いのか、どのような機材を使うのが良いのかを見て学びたいということで続けてきましたが、コロナ禍で難しくなり去年までオンラインとのハイブリッドで受け入れや相談を続けています。
この活動には大学の地域連携の予算を使用していました。今は東北大学と神戸大学の連携事業として予算のサポートをいただけるので、予算を使いながら旅費もこちらで負担したりしています。

それから報告書。やはり私たちの経験を知っている人がいないわけですから、神戸大学人文学研究科の奥村先生にサポートに入っていただいていたりしていました。1年に1回ぐらいは交流をする中で、専門員さんと困っていることの相談を受けたり、それから、資料自体が同時代の現代史の資料で、ある意味、資料保存、資料研究という言い方ではおかしいですけれども、そういうことにも必要であるという認識も大学としてありますので、いろんな形で繋がってきたかなというふうに思います。

 

資料の所在確認と保存の実際ー寄贈・預かりの判断と保存環境の整備

 

高森:どのように震災資料を集めることになったのか空気感を分かっていただけると思うのでそのご縁についてお話ししていいでしょうか。私の伯父が立ち上げ、現在は私が事務局長をしている阪神大震災を記録しつづける会は、人と防災未来センターに資料を保管していただいていて、調査先番号1300437というのが付いているんです。震災の手記の原本、封筒など個人情報のあるもの、校正した後にバックした原稿、名簿などを保存していただいています。よく考えると、これは伯父の時代にやっているわけですけれども、私が想像する伯父のよく言う言葉というのは、「カウンターとして、市民の言葉としてどう、この体験では落ちてしまうものをどう作るか、どういうふうに言葉として残すか」ということを言っていました。そんな中でなぜ人と防災未来センターに資料があるのかと危機感もあるということです。先日打ち合わせの際にお話を伺った時、以前、佐々木さんが伯父に話をされたところから始まったというお話を聞きましたが、その話をしていただいてもいいですか。

佐々木:3年動いている間でいろんなところに資料がある、残っているということは、ある程度分かりましたが、その資料どうされるんだろうと思うわけですね。大規模調査の始まる前は、資料を預かってもいつ整理できるか分からなかったが、人が沢山いることで資料整理ができること、声をかけておかないと資料はなくなるということもよくわかっていました。ですので、三宮の伯父様の事務所に行って資料を見せていただいたことは覚えております。多分その後、調査の方に行っていただいて、その時に伯父様と話して、預からせていただくのはどうだろうという話はしたことは覚えています。

高森:預かっていただいた資料には、11枚劣化しないように鉛筆で番号が振られていて、調査票番号が付けられているおかげでこの1300437という番号が、誰のどういう資料なのかが分かる。大規模調査の緊急雇用で採用された方々が聞き取りをして、この会はどんな会なのかっていうところを徹底的に書いていただいたうえで、16万点が残っているんですよね。この膨大な資料を見た時に、とんでもないことが行われていたんだとその後に知りました。そう思うと、当時から、震災資料を集めるという活動は、いろんな立場の人たちがちょっとずつ関わり合いながらやっているということも感じました。

佐藤:大規模調査とは別に、佐々木さんたちはピンポイントで資料集めに会いに行かれていたということでしょうか。

佐々木:何が重要で重要ではないかって難しいところなんですけど、前から活動をされている方、お付き合いのあったところには嘱託職員が手分けして行っていたと思います。 

高森:すごく面倒だったと思います(笑)。伯父も伯父の妻もこの資料どうすんねんというのがあったそうなんです。自分からはどうしようもないという状況で、佐々木さんが資料の意義を丁寧にお話くださった、だから預けたんだと思いました。

佐藤:数年経ってからの資料の話だと思うんですが、「震災直後に集まる資料と時間が経ってから集まる資料とで何か違いや特徴はありましたか。もしあれば。それはどんなものですか」という質問がありました。時間が経つ中で感じられた変化はありましたか?

佐々木:変化というか、やはり手放していいと思うかどうか。やはり手元に置いとかれたいという場合も結構ありました。必ずしもその残されて資料の意味が分からないとしても、やはりまだ自分の手元に置いておきたいからそういうところに預けたくないと思う方も当然いらっしゃいます。震災直後のものだからという理由ではなく、手放しても良いというタイミングが来た時に声を掛けていただけるように門戸を開けて待つしかないわけですよね。そういった状況をつくっていくという意味で、集めるということにこだわらない所在調査事業にという名前にしました。ただし、16万点の中には全部複製もあります。いくら意を尽くしたとしても県のところに預けたくないという被災者の方もいらっしゃいましたので、私たちのグループで預かっている資料もあります。今でこそ震災資料と言われていますが、必ずしもみんな資料だと思っていないものですよね。例えば子供が学校に行っていたら、学校からたくさんプリントを山のように持って帰ってくる。
その中には、学校給食が地震の後に再開しました、最初の給食はこれだけですよといったことが残っている。地域での対応の違いが分かる資料なんですけど、普通は見終わったら捨てますよね。そういう形で、なかなか同時代のこのような資料は意識して集めていかないと集まらないとも思います。だから、ものすごい分量になるというのもわかるような気もします。

 


写真:船山哲郎

アーカイブの課題と運用

 

佐藤:さきほど、人と防災未来センターに所蔵されている資料点数は16万点というお話がありました。この膨大な資料を保存するための場所、管理の大変なところは何ですかっていう質問があります。時間が経つ中、資料は増え続けるだろうし、新たな災害が起きるかもしれない。資料管理するだけ、保存するだけでコストがかかってきますよね。

佐々木:沢山集まるんだけど、集まっちゃうと大変。それもそうだと思います。だから、デジタル化と言われているんじゃないですか。

高森:大規模調査の時は、中性紙箱(注1)を大量に買っていただいていたので、私が人と防災未来センターで仕事をしていた3年間は買う必要がありませんでした。買えるときに買っておくということをしてくださったのかなと思っています。

佐々木:その通りです。大量に購入したので、確かフォークリフトで搬入した記憶があります。私は市町の事業規模ぐらいしか知らないんで、事務と相談してちまちま購入したりしていましたが、県や国の予算規模の違いを感じました。緊急雇用予算なので、人を雇うために使うお金だったのでその予算規模のおかげで、人海戦術で作業を進めることができた。デジタル化の部分では、資料を扱っている人から考えると、デジタルにしたからといって、一次資料を処分していいのかという問題がありますが、私たちは少し疑問にも思ったりします。結果としてデジタルでしか残らなくなってしまったのは仕方ないけれども、デジタルにして実際の資料がなくなると、必要な時にチェックができないなどのいろんな問題が起こります。こうしなさいと言えないなと思うのが、30年で情報媒体が変わりすぎているってことですね。当時は多種多様なものが出てきました。文章には、はがきや手紙、FAXもあるし、映像も写真もある。少しですけれどもMOやフロッピーなどのデジタル資料もあります。その当時流通していた情報媒体が全部ですね。だから、今の情報媒体で、デジタルの世の中になった時の資料収集ってどうするんやろうというふうには考えます。ホームページについては、国立国会図書館が定期的に集めていますよね。

佐藤:デジタル化に関しても質問が来ていました。「21世紀ひようご創造協会(現:ひょうご震災記念21世紀研究機構)の調査事業の時は、windows95は出ているので、デジタルもありますが、アナログと半々くらいかと思います。今はデジタルなので収集は楽ですが、整理しきれなくなったり、公開判定が済まないうちにデータが陳腐化されて残しにくくなっています。そのバランスをどう考えていけばよいのでしょうか。」今も悩んでいる佐々木さんとしていかがでしょうか?

佐々木:デジタル化が進み、インターネットでの公開が進んだことで、便利になった面がある。国立国会図書館のデジタル化が進んでデジタル公開がされるようになり、図書館に行かないと見られない資料もダウンロードできるようになりました。ですが、著作権処理、映像で言えば肖像権処理、それから2次利用の処理がものすごく厳格になってきています。コピーを取ることは複製権ですから許諾がいるし、あらゆることに許諾がいるようになっています。平成25年(2013年)3月から東日本大震災の記録や教訓を次世代に伝えるために、「国立国会図書館東日本大震災アーカイブ(愛称:ひなぎく)」というポータルサイトが公開され、東日本以降、災害アーカイブはデジタル化になり、ポータルサイトが国立国会図書館のサイトの中にあります。5060近いサイトが見られるようになっています。私たちのアーカイブ活動では、テレビ肖像権については、顔が出てきたところで映像を止めて、デジタルアーカイブ学会が肖像権ガイドラインに沿って全部チェックをして、それをもう1度研究会にかけて、OKなものをアップするという形を取っていました。東日本大震災の直後のデジタルアーカイブに関して言えば、作るときに大きな予算がつくので、予算の適用される12年の中でデジタルアーカイブを作るんですね。
私たちのように全てチェックするなんて時間のかかることはやっていられませんよね。そうすると、業者に依頼することになり、怪しいところを全部マスキングする形になってしまいます。
私たちは、できるだけマスキングしないという方針なので、1つずつチェックをしてインターネット公開の可否を判断するようにしています。それをしないでやってしまうと、一気に公開できるけれどマスキングすることになってしまう。何が難しいかというと、じゃあいつマスキングを外すかということ。1回目は全部マスキングをかけたとしても、その公開していくための仕組みをきちっと作っていかないと、外せないアーカイブになるということのこともあります。チェックする仕組み、公開の仕組みを常に考えていくことも必要なのだろうと思います。古文書を保管する場合、お金がなかったら倉庫に保管だけをしておけば資料として使えましたが、デジタル化によって媒体変換をしていかないといけませんよね。そのための費用もかかるので、それも含めて全体をコーディネートする仕組みを考えないといけない。どれが安くてどれが手間でないのかというのはまだまだわからない。デジタル化はその時その時の媒体に制限を受けるので、非常に難しいなと。私は答えがこうすればいいっていうのはないなと考えているというところです。

 

 

組織を越えた技術と経験の継承

佐藤:質問の中でデジタルの話が先ほどありました。それは情報を公開すること、個人情報の話にも大きく関わるお話でした。今、記録の結構具体的な話もあったんですが、さっきの話の中で、例えば、ボランティアの話や今は震災資料と言うけどというような、話がいくつも出ていたように思います。宮本さんは災害直後の災害ボランティア活動について研究されています。事前打ち合わせの時に、当時はカオスの状況だったんだと盛りあがっていたんですけど、佐々木さんの話を伺っていて、当時の状況含めていかがでしょうか。

宮本匠(以下宮本):今日伺ったような、なぜ人と防災未来センターにあれだけたくさんのものが集まっているのかっていう、そのプロセスをほんとに多くの人が知った方がいいだろうなと思います。正直、当時活動されていたような方でも、場合によっては、人と防災未来センターができたから自然に集まったんやろと思っている人少なくないですよね。あれがあるからみんなあそこに送るんやというのを聞いたことがあるけれど、そうではなくい。今日のお話で印象的だったのは、県が震災資料を集めることになった時に、これはやったことがない、分からない仕事だからきちんと専門家の人に話を聞こうとか、集める時に、社会学とか歴史学の勉強された方に実際に入っていただこうと佐々木さんにお願いしようとする。それだけ聞くと、分かれへんねんから、そうやって専門家に聞くって当たり前だよと思うところなんですけれど、実は阪神・淡路大震災以降の災害の中で、行政がそういったメモリアル施設的なものを作るっていう時に、きちんと専門家の人の話を聞いたり、協力を仰いだ例ってかなり少ない。もちろん、ボランタリーにこう活動されている団体はあっても。例えば東日本大震災の後に岩手、宮城、福島にそれぞれ作られた伝承館は、作るプロセスの中に一部博物館に関わるような方が入っていました。その方々も、実はこうやって言ったんだけどなかなか聞き入れてもらえなかったんだみたいなこともとても多いそうで、蓋を開けてみると、行政担当者が分からないので、分からないなりにやりましたみたいなものになっているケースがあります。
そこには、人と防災未来センターにあるような、資料の持ち主が、それが資料であるかどうか最初は気づいてなかったようなものはなかなかなくて、津波で流された時計などはあっても、あの時給食で何食べてたんやろうみたいなことがわかるような資料って、やっぱり専門的な方が関わっていなかったからなのか少ないんじゃないかなという気がしています。もちろん今、人と防災未来センターの資料がどれだけちゃんと活用できる形になっているんだっていう懸念はおそらくあると思うのですけれども、とはいえ、あそこにやっぱり集まっているってこと。しかも、それを検索して参照できるような形できちんと収蔵されているっていうのはものすごく多分大きいことだと思うので、まずもっとこのプロセスがきちんと知られるってことが大事だろうなっていうのがまず1つ。

もう1つは、じゃ、どうして神戸でできて、その後の被災地ではできなかったのか。これは、ただその専門の方がそこにいなかったという話だけじゃなくて、ボランティアの話のところであったような、佐々木さんが紹介された外岡さんの説明だと、当然それはするべきだとされていること以上のことを思いついたり気づいたり、ほんなら、じゃあもっとこうやったらええんちゃうか、じゃあ私だけやったらわからへんから、じゃあ誰かと声かけてみたらええやんかと。ケガするんやったらちょっと聞きに行こうやみたいな、ちょっとずつはみ出し合って、そこでコラボレーションして進めていくみたいな、こう活気みたいなものがあったと思うんです。
今年の能登半島地震がでわかりやすいと思うんですけれども、今ははみ出しちゃダメなんですよね。だから、ボランティアじゃなくて、もう今はもう自衛隊やと、消防やと、もう警察に任せたらええんやと。素人が思いつきで行っても迷惑かけるだけやねんからやめとけっていう、はみ出さないように、それぞれの領分でやりなさいみたいな。それで解決すればもちろんいいんでしょうけど、解決はしないですよね。いつの間に神戸で起きていたことの真逆のようなことが起きるようになったんだろうか。おそらくそういう部分がその震災資料の取り扱い方みたいなところの変化の背景にもやっぱりあるんじゃないかなという気がしました。

 


写真:船山哲郎

 

佐々木:難しい質問ですよね。今になって思えばですけども、非常に狭い範囲の災害だったし、もう1つ言えば、みんな元気で若かったっていうのもありますよね。地域も人も若かった。それから、まだ95年であれば、まだこれからいいことがありそうな気がしたんだけど、今じゃあそう言った時にうーんということもある。神戸のボランティアの話で言えば、いいも悪いも非常に属人的だったという印象はあります。先ほどから「○○さんのとこ」というような言い方するけれど、高森さんの伯父さまのところだと言えばわかるわけで。○○さんだっていう感じの非常に狭い範囲の中でやっていたというのもあるのかなというふうにも思っています。ただ、じゃあ今どうしてできないのかっというと、それ以上はしないような雰囲気っていうのは確かにありますよね。それがいつからなんだろうかというのは、やはり考える必要があるのかなという気もします。

でも、神戸の話ばかり出ていますけれども、実は長岡、新潟、中越の地震の震災資料については私たちより幅が広い。東日本の時に逃げてこられた方の資料を長岡で保存して公開するなど、行政が中心となりながらいろんな取り組みをやっているんです。行政がきちん雇用をして資料をつないでいっている。長岡マジックと言っているんですけど、資料ってぶちぶち切れるんです。資料は人についてくるので、ずっと資料のケアをするのは無理でも、できるだけ人が重なるような工夫でケアする人も続けていくような仕組みがいるんだろうと思うんです。私たちより資料の方が長生きなんですよ。人間の方が限界が来るのは早い。限界が来るんだったら、次につなぐために、資料を大事にしていかないといけないんだったら、どう引き継いでいくかという仕組みを考えていかないといけない。そこが神戸の場合は、私は必ずしもすごくうまくいったようには思えない。でも、長岡はそういう人の仕組みがうまく回っているなっていうようなことがある。震災の資料だけじゃなく、長生きする資料に対してどう付き合っていか。仕組みを考えていくことも大事かなと思います。そうすると、デジタルにしろ何にしろ、媒体が変われば必ず媒体変換が必要になりますよね。韓国のナショナルアーカイブスへ行っった時にびっくりしたのは、媒体変換のための場所や設備がすごく大きくとられている。そういうことも含めてアーカイブが可能になると思うんですよ。私はアナログの時代の資料保存や、そこに少しデジタルが絡んだぐらいの時代の人間です。多分私より若い人はもっといいアイデアが出ると思うんです。技術面でも、若い世代の方が使える。資料も、資料のお世話をする人もつなぐ仕組みを考えて行けてなかったなという気がしていて、神戸のことで言えば私はそれが残念かなっていう気がしています。

佐藤:続けていくということを考えると、研究会のお話でいえば、組織内で続くのではなく、組織外の研究会がハブとなって続いていくということも繋がってくるんですかね。

佐々木:人と防災未来センターの仕事はハブだと思います。震災関連の資料のハブ機関として、資料が増えることはなかったとしても、それを繋いでいくハブ機関としてやっていく。震災から20年を過ぎたあたりで、終活との関連で捨てられないけれど、自分の家にも置いておけないから資料などを預かって欲しいとセンターに声がかかっていると聞いたことがあります。私は辞めてしまいましたが、ハブ機関としての役割を果たしてほしいと思っています。

記録の「分有」というあり方

佐藤:捨てるというお話がでました。先ほど94年にご自身の資料を捨てたというのが印象に残っている方もいらっしゃるようです。「次に進むために、踏ん切りをつけるために資料を捨てざるを得ないという事態は、記録に残りづらい被災地で起こっていたことではないかと思います。残す方法、捨てることや廃棄することをどう考えられますか? 

佐々木:難しいなっていう気もしますし、でも残るものしか残らへんし廃棄もある程度私はやむを得ないんじゃないかっていう気も実際のところは思っています。

高森:以前にヒストリアン(*2)とアーキビストのお話が出たと思います。そこと関連させてはいかがでしょう? 

佐々木:アーカイブの人は、ある程度、整理廃棄も頭に入れていますよね。公文書の量でも言うと、毎年出てくる大量の公文書を選別する仕事があるんですね。その辺になると、難しいなっていうのが正直なところでもあります。アーキビストは、ある程度、要る要らないと選別することもあります。ヒストリアンや歴史研究者の人たちは、みんな残せと言いますが「無理じゃん!」と思う時もありますよね。特にそれを仕事としてやる場合、どれだけ持ち続けられるかといったところは悩ましい問題です。残す仕組みの中に、残すか残さないかを考えるということが当然入ってくる気もします。今まではアーキビストと言われる専門家が、廃棄を決め、それで良しとする考え方だったけれども、最近は「この資料を廃棄しますけれどどうですか」と検討することを取り入れましょうという考え方が出てきて、実行しているところもあると聞いています。特に行政資料で言いますと、資料そのものが私たちの民主主義というか、資料の根幹だという風によく言われます。それが公文書管理法のベースです。それを一部の専門家が判断して良いのか。その判断に一般の人たちが関わる、参画する仕組みをするべきだというような考え方が出てきているというのを聞いたことはあります。

参加者1:よりよく残して使ってもらうのは、例えばこの部屋全てに資料が集まっていても、目録がなくて渡すことができないと使えないですよね。でも、今日の佐々木さんの話では、ずっと残していきたいけれども、スキャンをしてデータ化すれば必ずしもその原紙はいらないかもしれない。例えば、アンケートも年間400500枚が毎年残っていくと。キーとなるものを試せない時にどちらかを残すかって言ったら、よりよく使うために捨てざるを得ない。公文書館業という役所の仕事は税金でやっているので、説明できなきゃいけないんですよね。こういうリストをつけたいと思いますと説明資料を作って、外部委員に見てもらって、いや、やっぱりいるんじゃないかということもあるし、ホームページを見た市民からこれはやっぱり残すべきだよねっていうのも意見を聞きながらやっていくというのもある。なんでも捨てればいいことではなくて、ただ新型コロナもそうですが、歴史的研究もできるけれども、まず次の対応として私たちはどう生きてくのかを考えなきゃいけないものを残していくということをやっている。

佐々木:公文書館で実務のお仕事もされているし、別のアーカイブの資料保存のこともやっていらっしゃったのでお詳しいんだろうなと思います。

参加者2:フロアから失礼します。震災まちのアーカイブでは、部屋で保管できる分量こともあるので、いただいた資料の中に同じものや個人的なものがある時、これは一緒に残さなくてもいいのではないかという時に、何を残さなかったかというリストをいただいた資料の中に載せておくようにしています。震災まちのアーカイブでは、そういう工夫で、いただいたけども残していないというリストを一緒に入れるというようなことをさせていただいているのでご紹介させていただきました。

佐藤:資料が残っているのは民主主義だという話がありました。多様な資料が残っていれば多様な判断ができるし、多様な人が関わって物事に意見をできることができる意味で資料の多様性が大事なのだろうなと今のお話を伺って思いました。佐々木さんもお話や、宮本さんも当時できたことが今なぜできないかという話がありましたが、資料収集の際に県に預けたくないと言っている人は、じゃあまちのアーカイブで預かることになったというお話がありました。意見が違うものを受け入れる担い手の人も多様にいて、役割が何かわからないから結果的に分担していたということなのだと思います。その一部だけでどうするのかではなく、地域の中に色々な記録を持っている人たちがいる。震災まちのアーカイブがやっていたように、全部持っていなくても所在目録を持っておくとか、そういう多様さのようなものがあったのかなと改めて思ったんです。

佐々木:「震災・まちのアーカイブ」の名前をつけるときに、まちのアーカイブというのはその街の中にアーカイブがある。どこかの中央でないとダメではなく、まちのいろんなところにアーカイブがあって、そこにある資料を持っているところを支援しよう。必ずしも集めるだけいいのではなく、地域の人たちの中にあるべきではないかと考えこの名前を付けたような気がします。私たちがうまくいったのかと言えば、なかなかうまくいかなかったところもあろうかと思いますけれども、しかし、考え方としては、人と防災未来センターだけではない在り方といいますか、まちの中にいろんなアーカイブがあっていいんじゃないかと思います。でも、実際やっていくと民間で活動する限界も見えてきています。先ほども言いましたけれども、資料の方が長生きで、私たちの方に限界がある。じゃあそれをどうついでいくか。
だったら、兵庫県は人と防災未来センターという機関を作ったんだから、ハブ機関としていろんな形で支えてもらえればいいかなという気はしています。
ひなぎくは一応デジタルアーカイブが持ちきれなかったら引き受けるということになっているので、限界を迎えて引き取るところが増えているというのが課題だと最近聞いています。どう持ち続けるか。それは自治体なり、パブリックな機関ではないとできないことってあると思うんです。プライベートだけではできない、パブリックなところがどうこの社会のインフラの1つとして人々の記録の集積を保障していくかという議論をきちっとやる必要があるのかなという気がします。

佐藤:今回、この災間(さいかん)スタディーズというプロジェクトで、分有(ぶんゆう)という言葉を掲げているのは、実はこの震災まちのアーカイブの議論の中で分有という言葉を使われていたことをきっかけにしています。人と防災未来センターは、「メモリアルセンター構想」というものがあり、それに基づいて人と防災未来センターになっていきました。メモリアルセンターから人と防災未来センターになっていくあり方自体に、まちの側から意義を唱えるような活動がありました。記録を占有するものではなく、分有するというあり方で、震災の記録を共有すべきなのではないかということが議論でされていて、そこに私たちもヒントを得て、今、記録の在り方どのようにありうるのかを考え始めています。占有の在り方、分有の在り方として自分たちで持つのではなくて、いろいろなとこにある状態を見ていくと話が出てきたのかなと思います。この震災まちのアーカイブについても質問がいくつか来ています。「震災まちのアーカイブの活動場所は長田区だったとのことですが、資料の中で地域性みたいなものは出てきたんですか」という質問がありましたが、いかがでしょうか。

佐々木:地域性っていうこともないですけど、最初の事務所には他の方が一緒に同居されていた時期もありますし、近くには長田ならではの他のグループもいくつかあったんですよ。長田区にあるご近所さんのグループさんとは、親しくさせていただいて、時には紙折り機も借りたり、印刷機も借りたり。一方で、東灘にあったグループに震災まちのアーカイブのメンバーが関わっていました。でも灘や東灘、あるいは芦屋、西宮のボランティアの方は、あんまり顔見知りじゃない。近くのところと親しくしていたというぐらいの感じかな。

佐藤:いろんな大変なことあったと話にありましたが、「活動を続ける中で、メンバー間の方針の違いが出たことありますか。あったとしたらどう乗り越えましたか」「前半のお話に出てきた、阪神高速が落っこちた場所の近くで被災しました。多くの人たちが困難の中にいる中で、こんな活動をされていた方々がいたことに胸熱です。お話が聞けて良かったです。具体的に思い出深いエピソードがあれば1つお伺いしたいです」という質問があります。

佐々木:乗り越えたこと…なんせ私たちのグループゆるいから。でも、1つだけはっきりしているのは、資料を整理して、収集して、次に送るのが仕事っていうところ。そこは一致していたと思うんですね。資料を集めて、整理をして次に送りましょう、そして、その時に資料の語る声に耳を傾けましょうと。それからできるだけ小さな声も聞き逃さないようにしましょうねというぐらい。だからチャキチャキ進まないところもあるんですよ。最近、瓦版なまず(注3)の発行が遅くなっていて、同じ10年でも合冊にしてみると違いがありますよね。でも、絶対これではないといけないというのはあんまりない。

それと、地域性で言えば、長田区は火事でひどかったけれど、東灘や芦屋のあたりもひどかった。私の子供の同級生の関係者から被害のことは見聞きしましたが、資料に残すことは必要だなと思いながらも、逆に、近しいと資料の残すといった話もしにくいというのはあります。わかっているなら残さないと、と言う人もいらっしゃるかもしれないけど。年齢とも関係していると思いますが、アーカイブの仕事や、高校教員をずっとしていたのではなくて、長いこと専業主婦として、家で子育てしてきた期間が長いので、子供を通じて地域の方々と近く付き合っていた時期があります。そうすると、震災に遭った出来事についても、外から見るのと、私が中に入ってしまった目で見るのとは違う。だから、プロの仕事としてどうかと言われると分かりませんが、それはどうしてもできない。30年経ってと言うけれど30年じゃ時間足りないんじゃないかというのが私自身の感覚です。

佐藤:大きい石が置かれた感じがしました。高森さん、宮本さん今日のお話を踏まえて一言いただけますでしょうか。 

高森: 1番印象に残った言葉が、所在調査ですね。所在っていう言葉が、我々が考えてきた分有という言葉と関係するんじゃないかという気がしました。それは、震災まちのアーカイブは、まちの中にあるアーカイブであるってことを考えること、集めるのではなく、在るということを確認する。そこから始まりであるし、集約する、まとめるということではなく、そこに在ることを確認しようというところで出てきた行政的な用語の中で、所在調査という言葉を選択してこられたっていうところに現れていることが、認識できて良かったと思っています。もう1つは、官民とか、震災直後と30年後とか対比で語りがちですけれども、それはシームレスであってカオスのまま、どう受け取っていくかを考えていくってことが、この所在という言葉とともに考えられたのは、すごくありがたかったなと思います。

宮本:日本の生産年齢の人口や、日本経済が世界経済の中でどれぐらいのシェアを占めるかとか、1995年っていうのはいろんな社会指標の転換点になっています。1995年まではずっと右肩上がりでしたが、1995年を境にこの30年ずっと右肩下がりなんですよね。おそらく、神戸の時に社会ができたことと今の社会ができることの間には、いろんな違いは多分ある。じゃあこの災間(さいかん)の時代、右肩下がりの時代にどうやって震災資料をきちんと集めて後世に伝えていけるかと考えた時に、神戸でされたことが全く使えないわけじゃない。領分を越えるというお話が本当に印象的で、領分を越えるということは、これからの時代だからこそしていかないと行政も地域も細っていく。これは行政の仕事でしょ、これは地域の仕事でしょと言っていたらほんとにもっと何も出来なくなるんだろうなと思ったので、この領分を超えていくということを1つの新たなキーワードにして、災間(さいかん)の時代の分有を考えたいと思いました。

佐藤:今日は1995年から改めて震災から30年目を見る場だったと思います。非常に印象的だったのは、歴史を背景にされている話もされていましたが、時間が繋がっている、地続きであるというお話を何回もされていました。災害は、その瞬間を点的に見てしまいますが、実はその前のことがより見えやすくなっていったり、元々あったものが外に出て来たり、時間を続けて見ていったり、逆に今どうすればいいんだろうという時に、今ある枠組みで捉われると、実は最初始めた時はもっとぐちゃぐちゃしていた。佐々木さんの原動力は何ですかという質問も実はありましたが、今日のお話で佐々木さんのお人柄がよくわかったのではないかと思います。震災後にどう資料保存がなされてきたのかというのは読むだけじゃわからない。そこに人がいるから資料がついてくる。そう考えると、前に動いていた人たちのことを、時間を遡って見てみることで、自分たちに何ができるかをもう1回考えられるのではないかと思いました。震災から30年を迎えるタイミングで、前から続いていることを確認できたので、この議論を次に進める意味で良い機会になりました。佐々木さん、長い時間色々お話伺わせていただきありがとうございました。

 


写真:船山哲郎

 


注1 中性紙箱:資料保存に用いられる、酸化を防ぐための専用の紙箱
注2 ヒストリアン:残された資料を基に過去の出来事や文化を研究し、解釈する専門家。資料を解釈し、歴史を研究・記述することを主目的とする。アーキビストは 資料そのものを公平に保存・管理し、利用に供することを主目的としている。
注3:佐々木さんが参加する阪神・淡路大震災の記憶と記録を考えるグループ「震災・まちのアーカイブ」(平成10年誕生)では、機関誌「瓦版なまず」を発行。発足10年を迎え、これまで活動の結晶として発行してきた機関誌「瓦版なまず」を合本集成した。

 

文:大泉愛子(デザイン・クリエイティブセンター神戸)

 

#2 ディスカッション「記録を集め、受け渡す」
日時:9月28日(土)14:00~17:00
場所:ギャラリーC
ゲスト:佐々木和子(震災・まちのアーカイブ会員、神戸大学人文学研究科学術研究員)
聞き手:佐藤李青、高森順子、宮本匠(災間文化研究会)

災間スタディーズ:震災30年目の分有をさぐる
期間:2023年11月18日(土)~2025年3月30日(日)

阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
募集期間:2024年1月17日(水)〜12月17日(火)

分有資料室
期間:2024年3月30日(土)~2025年3月30日(日)※月曜休(祝日の場合は翌日休館)